自分がバーチャルYoutuber(Vtuber)をフォローするようになったのは2017年の年末に輝夜月を見てからで、翌年の1月頃にときのそらを知り、3月に入る頃には月ノ美兎をファンアートで知ってやや遅れ気味ににじさんじ中心に追いかけるようになったという流れだったと思う。
今では時間が許すかぎり、外出時を除けばほぼ毎日色々な動画を再生している。そこそこヘビーなユーザーと化していると思うが、漫画やアニメ、趣味のゲームやTV番組録画なども以前と変わらず楽しめているので幸いに(?)Vtuber一色の生活になったという感覚は薄い。
それでも、「未来の文化」になりつつあるVtuberの世界に大きな魅力を感じているのは確かで、大小を問わずVtuberについてのことを考えない日はない。
これまた幸いなことに、物書きとしてこの世界に関わることもできるようだ。媒体はまだ伏せておくものの、本当にありがたい話だと思う。
しばしば見掛ける問題提起のひとつに、「いつまでVtuberという総称が有効なのか」という問いがある。
今でこそYouTubeという動画投稿・配信サイトが拠点となっているが、VtuberはMirrativやOPENRECでも活動できるし、すでに芸能人の参入が多いSHOWROOMの配信者には「SHOWROOMER」という呼称がある。
ニコニコ生放送やCluster.などの場合は活動の拠点というより、特殊なイベントの際に利用されがちではあるが、それにしても「ユーチューバー」という括りが継続的に通用しうるのか、という不安はある。
「Vtuber」はもう一般名詞みたいなものだからYouTubeと無縁になっても使い続ければいいじゃないか、と割り切ってもいいかもだが、YouTubeも企業なのだから商標的なカドが立たないわけではない。
(もっとも、ファミコンの記事が載らなくなった『ファミコン通信』が『ファミ通』と誌名を変えて存続しているようなケースもあるわけだが。)
そうした「将来的なゆらぎ」を抱えた文化がバーチャルYouTuberであるのだが、この5ヶ月ほどの間、増大しつづけるVtuberたちを眺めてきて面白いと思うのは「何がバーチャルYouTuberと認識されるのか」という基準の曖昧さだ。
いわゆる定義論をするつもりはない。
むしろ定義のない状態で、ある一定の「バーチャルYouTuberっぽさ」という概念が共有されていること自体が面白いのだと思う。
つまり活動拠点がYouTubeにあるかどうかといった「条件」によって決まるというより、「っぽい」という感覚の集積によってVtuberはVtuberとして判断される。
「言語化はできないが直観で判断できる」という状態は、Vtuberにかぎらず、新しく現れたジャンルや集団の認識においてよく起こることだと思う。
そこで、これから定義論に手を出そうと考える人達のためにも、この曖昧な「っぽさ」の捉え方について考えてみたいと思う。
どこまでがバーチャルYouTuberだと認識されるのか?
この問題を考える上で「面白いな」と感じていたのは、筆者の専門領域である「漫画」 の問題と重なる部分も見つかるからだ。
漫画論・漫画学の世界には、「漫画と呼べるのか曖昧なもの」を、どこまで漫画として扱ってよいのか?という問いに向かい合ってきた歴史がある。
その議論を紹介した、前回のエントリから引用してみよう。
漫画もまた、読者の多くが「漫画らしさ」というイメージを曖昧に共有しつつも、歴史的にはそのイメージが必ずしも通用しないケースに多く直面する文化なのだ。
〔略〕
これは現実的に、アーカイブとして「世界中の漫画を収集しよう」と公的機関などが試みようとした時にぶちあたる問題であって、「漫画」と「漫画でないもの」の線引きが困難である以上、「手当たり次第にすべて収集する」という方法を取らざるをえないようだ。
ただし、本当に手当たり次第では「漫画とは何か」を学術的に考えることはできない。
この難問に対応するために、夏目房之介が(講演の場などで)提唱していたのが「中心と辺縁」という枠組みで捉えることである。
あくまで便宜的な枠組みであるが、まずは誰もが「漫画」と認識するような「中心」を仮に設定する。例えば、日本で最も発行部数の多い漫画誌である『週刊少年ジャンプ』やそのコミックスはほぼ確実に漫画だと呼べるだろう。ここではアメコミやBDなど、文化ごとに「中心」を設定し直してもかまわないと思われる。
そしてその中心を囲むようにして、周辺に「漫画のようなもの」が位置し、さらにそこからも遠ざかると「漫画ではないもの」として扱えばよいという考え方だ。
〔略〕
完全に「漫画」と「漫画ではないもの」を一気に定義するのではなく、中間に「辺縁」を挟むことで便宜的に対応しようとするこの発想は、漫画以外のジャンルにおいても応用できる「定義論争への処方」であると思う。
現在、「手当たり次第」という方法論に近いのは「バーチャルYouTuberランキング」というサイトにおけるバーチャルYouTuberの登録基準だろう。
「YouTubeのチャンネルとTwitterのアカウントを所有していること」という単純な規定(Twitterは任意)だけがあり、その条件さえ満たせば一応は登録できる仕組みになっている。
しかし当然、「これは本当にVtuberなのか?」というアカウントでも登録できることになる。将来的には「YouTubeやTwitterとは無関係に活動するVtuber(的な配信者)」を含めることができない、という問題も発生しうるだろう。
「中心」となるキズナアイ
そこで、バーチャルYouTuberについても「中心と辺縁」のモデルを当てはめて考えてみたいと思う。
「中心」として位置付けできるのは、やはり日本で初めて「バーチャルYouTuberを名乗った」とされる、Vtuber界の親分ことキズナアイなのだろう。
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2017年末以降のバーチャルYuTuberブームというのは、このキズナアイを「バーチャルYouTuberっぽさ」の中心として追いかけてきた歴史だとも言える。
彼女のできること・できないことがバーチャルYouTuberそのものの特徴として認識されやすくもなる。
その肩書き通りに「YouTuberっぽい動画を撮ってYouTubeにアップするバーチャルのキャラクター」であり、つまり「Vtuberっぽさ」以前には、「YouTuberっぽさ」が当然意識されていたと言える。
映像の技術的には全身で動く3Dモデルを持つが、指先や、口以外の表情を自動で再現することは不得手とする。
バーチャル空間上の「椅子に座る」という動作の再現も技術的に難しいようで、基本は立ちっぱであり、椅子に座っている前提(ゲームプレイ中など)ならば上半身のみが画面に映されていることが多い。
また、どうも3Dモデルが「縦軸の移動」を認識しないらしく、ジャンプができない、といった特徴も存在していた。
(03:00頃から)
彼女をバーチャルYouTuberの基準にすることで、まず発生するのが「キズナアイ以前のバーチャルYouTuberっぽいキャラクター探し」である。この時点ですでに対象がYouTuberではない。
デビューそのものはキズナアイより何年も早いが、専門チャンネルやTwitterアカウントを長らく持たなかった(出演番組のYouTubeチャンネルはあった)、WEATHEROID TypeA Airiがその代表となる。
チャンネル登録順で言えば新人Vtuberなのに、キズナアイからは先輩格のような扱いも受けている、元祖の元祖のような存在だ。
3Dモデルの技術的には現在より見劣りする部分もあるが、「リアルタイムの会話」と「読み上げ音声」の使い分けが可能という、逆に今では珍しい特徴*1も持つ。
技術的な特徴を基準とすることで、同じタイプのキャラクターとして電脳少女YouTuberシロやミライアカリ、そして輝夜月やときのそらがバーチャルYouTuberの仲間として認知されていくこととなる。
さて、前回のエントリでは「ジョジョ」シリーズのスタンドを「中心と辺縁」のサンプルに用いていたわけだが、例えばザ・ワールドとかクレイジー・ダイヤモンドのような近距離パワー型スタンドを「スタンド」のイメージの中心になりうると挙げていた。
喩えるなら、そうした近距離パワー型スタンドと近い位置付けにできるのが彼女たちのようなタイプかもしれない(余談)。
そして様々なキャラクター(とその演者)の登場によって、バーチャルYouTuberの概念は拡張されていくことになる。
第一に衝撃を与えたのは、バーチャルのじゃロリ狐娘Youtuberおじさんことねこます氏だろうか。
キズナアイ、シロ、ミライアカリと並んでバーチャルYouTuber四天王と称された有名配信者の一人である。*2
彼or彼女は少女のモデルを用いながらボイスチェンジャーも使わず男性であることを隠さない、という衝撃的な特徴があったわけだが、今振り返るとそもそもVtuberとしての出自が異なっていたとも言える。
企業をバックに持たずに全て自前で用意している点も当時は異色に映ったが、それだけではない。
何よりもYouTubeでの活動だけが主目的ではないような、VRChatなどのVRネットワークサービスを促進させている技術者……という側面を個人的には強く感じる。
Vtuberとは、基本的に演者の名前をキャラクター(アバター)から切り離そうとするものだが、VRネットワークの世界にそうした大前提はない。
まず現実のネットユーザーがいて、VRネットワークにおいてアバターを用いるだけ……、という意味ではねこます氏の在り方はむしろ一般のユーザーにとって模範的だとも言えるのだ。その社会的役割(?)からすると、YouTubeでの活動は「手段」にすぎないようにも映る。
つまりねこます氏の存在は、技術的な差異や動画の内容だけではなく、その「目的」によってもVtuberの概念は変わることを示唆している。
ねこます氏との交流も持つノラネコ氏によるのらきゃっとは、両者の中間のような存在だとも思われる。
音声認識と音声読み上げの組み合わせで会話する仕様はキャラクター(女性)と演者(男性)を基本的には切り離そうとしているが、こちらもVRネットワークにおけるアバターの「お手本」として働いている側面が強いのではないだろうか。
現実のユーザーの存在をあまり隠していない、という意味では、やはりねこます氏との交流がある万楽えねも、VRネットワークに寄ったVtuberでもある。
ただ、ねこます氏やのらきゃっとに比べるなら、VRネットワークにおける彼女をあまり知らないままVtuberの一人として認識してる人も多いかもしれない。
バーチャルYouTuberの辺縁
また、バーチャルYouTuberブーム初期には、コウノスケ氏制作の源元気(げんげん)がバーチャルYouTuberとして「見なされていた」。
モデルの質感は3DCGっぽいが、Live2Dによる2D画像のキャラクターであり、声は合成音声。
つまり四天王らの3D技術からは掛け離れた「アニメーション動画」と言ってしまってよいのだが、不思議とこれがバーチャルYouTuberを名乗って受け入れられる、という現象が発生していた。
まさに「バーチャルYouTuberっぽさ」の「っぽさ」の部分によって、見る者の認識が操られた結果だったかもしれない。
ちなみに、源元気は「キャラクター自身」のTwitterアカウントを所有していない。さらに「本人」のYouTuberチャンネルは4ヶ月前から停止中で、新作動画はコウノスケ氏のチャンネルでアップロードされるよう方針変更されている。
そちらにしても、最新の投稿は2ヶ月前にもなるのだが、先ほど「アニメーション動画」と述べた通り、YouTuber動画というよりも、ほとんど「映像作品」へと移行しているようにも映る。
と、言うのもバーチャルYouTuberのブーム以降、かねてからときのそら、ミライアカリが行っていたように、1時間以上にも及ぶライブ生配信がその活動において目立つようになる。
(1時間に達した生放送)
【17/09/28放送】ときのそらVR生放送アーカイブ【#004】
つまり、短めの企画動画の撮影が「リアルのYouTuberっぽい活動」のように元々は見なされていたはずだ。しかしライブ中の「雑談」や「ユーザーコメントとの対話」を行えることが「バーチャルYouTuberっぽさ」の要素に含まれていく。
これは台本ありきで話すタイプには当然不可能なことであるし、演者によるアドリブ性の高さこそが、動画内のキャラクターと「Twitterアカウントによる発言」を紐付けることを強化している。
キズナアイのライブ配信は30分前後や1時間未満に収まる傾向があったが、「長時間のライブ生配信が可能であること」という要素が「中心」に再設定されていったと考えてもいいだろう。
また、コラボ企画によって「他のVtuberと同時に会話できること」がVtuberの可能性として注目されやすくもなった。
この現在の観点からすると、源元気はかなりVtuberの「辺縁」に位置している。
Vtuberの概念が未成熟な時期だからこそ受け入れられたスタイルではあったが、今からするとどうだろう?
ところで「どこまでがVtuberなのか」という話をしていると「(客観的に定義できないのだから)本人が名乗った時点でそれがVtuberなのではないか」という達観じみた意見が現れがちでもある。
しかし、ユーザーの立場からだけではなく、制作者の立場からも「Vtuberを名乗ることをためらう」ケースがあるようだ。
例えば、『ニー子はつらいよ』という漫画のヒロイン「ニー子」がVtuberデビューした、という設定の動画が存在する。
webで人気爆発中の漫画「ニー子はつらいよ」のコミックス1巻の発売を記念して特別動画を公開!
作者書き下ろしのシナリオでおくるボイスドラマをお楽しみください!CV:金元寿子
動画制作協力:ファイブスターズゲーム株式会社
声優が公開されているのみならず、「作者書き下ろしのシナリオ」などと明言しているのも面白いが、はっきり「ボイスドラマ」と言い切ってしまっているあたり、自覚的に「Vtuberをデビューさせているつもりがない」ようで味わい深い。
そもそもを言えば、漫画の劇中キャラクターがそのキャラデザのまま(つまり「素顔」で)撮影しているということは、「それはVtuberではなく単なるYouTuberなのでは?」というツッコミ待ちの作品にも見える。
単にネタとして制作されているから、という前提知識があるにしても、果たして私たちはこのキャラクターの姿から「Vtuberらしさ」を認識できるものだろうか? もし多くの人ができないのだとしたら、それがバーチャルYouTuberの「辺縁よりもさらに外側」を示しているとも言えるだろう。
そしてある意味、源元気やニー子に近いタイプとして鳩羽つぐの存在がある。
これまでの文脈からすれば、鳩羽つぐは明らかに「映像作品」寄りの動画投稿を続けている。
Twitterアカウントも存在しているため、「バーチャルYouTuberランキング」の登録条件も満たし、現時点で国内ランキング10位*3という記録を見せているが、そのTwitterも動画の投稿にしか用いられていないのだ。
そして動画内容の見方によっては、源元気以上に「映像作品」としての傾向が強い。
だが、特筆すべきなのは多くの人が「バーチャルYouTuberらしさ」を彼女に感じ取っている事実だろう。
よくある解釈では、鳩羽つぐは私たちの現実から切り離された別の世界に存在していて、なかば監禁状態にあるという想像が巡らされている。つぐ自身が自発的にTwitterで投稿しないのも、それで一応説明がつく。
つまり、一連の映像作品のなかでは、つぐ自身がアドリブで行動できるようなキャラクターに見えなかったとしても、「そこにいるかもしれない実在感の高さ」でもって、あたかもVtuberのように認知されていると言えるだろう。
「単なる3Dアニメであって、このキャラは実在していない」と思わせるのではなく、「別の世界に実在する少女の動画を見ているのかもしれない」と想像させているのが鳩羽つぐだ。
源元気の時点とはまた異なるアプローチで、私たちの抱く「バーチャルYouTuberっぽさ」を刺激していると言えよう。
とは言え、私見ではそこまで考えた上でも「鳩羽つぐをバーチャルYouTuberって呼ぶのはどうかな」と疑う気持ちがそれなりにある。「うまく錯覚させているな」、というレベルに感じてしまうのだ。
そんな錯覚を誘う行為自体が「作品(アート)」になっているのではないか、とも思う。
ただ、(世界観はぶち壊されてしまうが)鳩羽つぐはいつだって「はいどーもー」などと言いつつ突然「普通のVtuber」になっても構わないキャラクターでもある。おそらく技術的には、手付けのアニメーションではなくトラッキングにも対応できる3Dモデルを用いているはずだろうから。
まぁ99.9%そんな展開にはならんだろうと思いつつ、そうした潜在的な可能性も含めて「バーチャルYouTuberっぽさ」が担保されているとは言えるかもしれない。
もうひとつ「辺縁」に位置しそうなVtuberも紹介しよう。
そろそろ「虚無のことかな?」と期待する人も多そうだがそちらはあえて無視して、登場していただくのは「天才バーチャルYouTuberピアニスト」を自称する彩音である。
【バーチャルYoutuber】彩音よ。初めまして。【自己紹介】
動画を見ていただけるとわかると思うのだが、これがかなり微妙な存在なのだ。
まず、喋らない。音声読み上げもせずに自己紹介は字幕だけで、音源はピアノの演奏のみ。
そもそも、指先の動きが映らない(先述したが3Dモデルの指先をリアルに動かすのは技術的に困難なのだ)映像に「ピアノの音源を乗せている」だけなのだが、こういう動画の作り方なら「誰の音源を使っても同じなのでは?」と疑うこともできる。
ピアノの素人の感想ではあるが、そこまで個性的な演奏スタイルというわけでもないし、「彩音」というバーチャルなキャラクターがピアノを弾く意味自体をあまり感じない、と言ってもいいと思う。
とはいえ初動画の投稿が2018年の4月1日であり、Twitterと共に16日間だけ活動したっきりの存在なのだ。
おそらくネタ(お遊び)として作られたVtuberだと思われるのだが、これがかえって「Vtuberっぽいが、Vtuberになりきれないもの」とはこういう微妙なラインにあるのかもしれない、と考える切っ掛けを与えてくれている気もする。
要するに、バーチャルYouTuberっぽさが量的に足りていないのかもしれない、と言えるのだ。
Live2D+顔認識技術という新たな「中心」
時系列としては前後した解説になってしまうが、「キズナアイ」に象徴されるVtuber概念の「中心」は、常に更新され拡張されつづけている。
当初、Vtuberを始めるには初期投資のコストが高くつくものだと論じられていたが、Live2Dモデルと顔認識*4システムを組み合わせるアイディアによって初期ハードルが大幅に低く引き下げられた。FaceRigやにじさんじアプリによるVtuber参入増加である。
これらもまた、「バーチャルYouTuberっぽさ」のスキマをついたことによる概念の拡張だった。
Oculusなどを利用した3Dモデルのトラッキングの場合、口元(リップシンク)以外の表情の再現が不得手なのだと先に触れたが、顔認識に特化したソフトならばかなり細かな表情(瞳の揺れや眉なども含む)まで自動で再現することができる。
そこでは、Vtuberの本質というものが「会話」に見出されていることが窺える。VR空間内で動き回ったりポーズを取ることよりも、表情によって感情を伝え、演者が話しつづける雑談の内容によって「Vtuberらしさ」が作り上げられる。
さらにローコストになってくると、簡素なリップシンクや目パチだけの一枚絵でもVtuberと認識されうるようになる。そちらが「バーチャルYuTuberっぽさ」の基準としているのはもはやキズナアイではなく、Live2DタイプのVtuberなのだと言えるだろう(歴史的にも、2DのYouTuberの出自はキズナアイより古く遡ることができる)。
究極的には、キャラクターデザインさえあれば、画面内にその顔が映っていなくても「Vtuberが喋っている」ようにきっちり認識されることだってあるのだ(画面からVtuberの姿がしばらく映らないまま進行する動画は実際に多い)。
さらに言えば、モデルの形状よりも「演者による会話」にこそ本質が見出されるというのは、モデルはアップデート可能である、という事実によっても支えられているのかもしれない。
月ノ美兎の3Dモデル化(通称「Ver.2」)がその最たる例であるが、取替不能である演者に対し、そのモデルはコスト次第で3Dへと乗り換えられること……それでもファンは「月ノ美兎」なのだと充分に認識することが示されたのだ。
月ノ美兎の所属するにじさんじの公式メンバーらには、将来的にそうした道が開かれているとも言えて、むしろ2Dと3Dの長所短所をそれぞれ使い分けられる汎用性もある。
ただし、「2Dでも喋っていればVtuber」かというと、そうは問屋が卸さない。
まさか「ゆっくり実況動画」や「ゆっくり解説動画」の投稿者がバーチャルYouTuberだと思う人はいないだろうし、どうやら「キャラクターデザインがオリジナルのものであること」が大きな判断基準になっているようだ。
(※キャラクターはゆっくり魔理沙だが、動画上では魔理沙と呼ばれず*5、動画制作者のアバターのようにキャラクターが用いられている例。だが誰が見てもVtuberとは感じないだろうと思われる。)
ちなみに「ゆっくり音声」かどうかはむしろ重要ではないようで、初投稿からしばらくゆっくり音声を用いていた日雇礼子はしっかりとVtuber認識されている。
動画の内容的に、ゆっくりでも同様のことはできそうに思えるのだが、オリジナルモデルでなければ「キャラクターとして立たない」、というシンプルな力が働いてそうではある。日雇礼子のモデルデザインはかなりシンプルなのだが、それでもVtuberにとって固有のモデルは必要不可欠な存在のようだ。
まとめ
それでは最後に、筆者でなければ使えないネタでオチを付けて終わらせようと思う。
実は筆者は、強制的にバーチャルYouTuberにされたという普通はあまりしないだろう経験を持っている。
Web上で「私たちの気付かない漫画のこと」という漫画論の連載を終わらせた際、イラスト(図解)担当だった漫画家の西島大介さんが、最終回記念の動画をYouTubeにアップしてくださった時の話である。
(私信ですがその節は大変お世話になりました。またお仕事ご一緒しましょう。)
そこでは西島さんとぼくがバーチャルユーチューバー(原文ママ)になってしまったことになっており、西島さんの声がキャラに付けられているのだが、まさかこれがVtuberなのだと思う人はおるまい、と断言しても許されると思われる。
すでに述べたことの繰り返しになるが、バーチャルYouTuberは定義がないからと言って、「名乗るだけでなれる」ものではないことを、この様子からも感じ取っていただきたい。
象徴的な「◯◯っぽさ」の中心があり、その周囲に辺縁の広がりがあり、さらにそこから外れるものがある。そうした枠組みで捉えることが、とりあえず有効に働いている。
やがては「Vtuber」に代わる呼称が必要とされる時が来るかもしれない。そうした状況においても、「中心と辺縁」によってゆるやかに概念を捉え直していければいいのだと思う。