『らーめん発見伝』『らーめん才遊記』読破

 メインキャラクターである「芹沢達也」がネットミームとなって有名すぎるグルメ漫画シリーズなのだが、ぼく自身も通読しようと思ったのはネットで知ってからの後追いだった。
 それで今日(25日の日付変更直後)、じわじわと読み進めていた『らーめん発見伝』『らーめん才遊記』を読了し、安定して面白かったので読後の感想を置いておきたいと思う。

 ちなみに現在はシリーズ最新作の『らーめん再遊記』が『ビッグコミックスペリオール』で連載中で、そちらもちらほらと読んでいる状態になっている。

bigcomicbros.net

 余談だが、「才遊記」も「再遊記」も読みは同じ「さいゆうき」なので、口頭での打ち合わせなどはどうしてるのだろう? 再遊記は「ふたたびゆうき」などと呼んで区別する工夫とかしてるんだろうか? という余計な心配もするのだった。

 さて、読んでいて常に頭によぎっていたのは「ラーメンの歴史としてどこからどこまでをノンフィクションだと思って読めばいいのか?」という点だった。
 時々ディテールが細かすぎる描写もあって、名前を検索すると実在するラーメン店を取り上げた回もあるのだが、芹沢の「らあめん清流房」はもちろん、準レギュラーとして登場するラーメン職人たちが経営しているのも架空のラーメン店のはずで、この漫画以外にまともなラーメン知識を持っていない自分からすると、史実を知らない地域の歴史モノを読んでいるような不思議な感覚があった。

 今の自分は小麦食品を完全に絶った食生活を続けているので、当然ラーメンを食べる習慣もないが、そうなる前から外食としてのラーメンはそれほど好むメニューではなかった。それゆえに、ラーメンマニアやラーメン職人を描いたこのシリーズも、純粋に未知の文化史として客観的に楽しむ面が大きかったのだ。

 一歩間違っていれば、司馬遼太郎塩野七生の「歴史作品」を読んでその歴史観に感心してるような状態なのかなあ?と冷静になることもあって、マジメなラーメン好きがこのシリーズの歴史観をどのくらい肯定的に捉えているのか、機会があれば聞いてみたいという読後の楽しみもできた。
(それこそ、作中で文化論的な視座を持つ「有栖涼」によるようなラーメン論がどのくらい成立しているのか、作品協力者である石神秀幸の存在もよく分からないままこの読後感想を書いている。)

 『美味しんぼ』のような典型的なグルメ漫画でも、どこまでその雑学やウンチクを信用すればいいのか、というのは通底する問題のはずだが、このシリーズで特にそれが頭によぎるのは、ノンフィクション的なディテールがそれだけ深く、ひとつの筋が通ったものに見えているからかもしれない。

 次に、ラーメンそれ自体にさほど関心のない自分からすると、ラーメンや創作ラーメンというジャンルにこれだけ進化のエネルギーが費やされてきた様子を眺めるのは羨ましくもあった。
 「伝統的な大衆食」と「創作性」を両立させているジャンルといえば、パスタやカレーライスなども思い浮かぶが、例えば米粉麺を使ったフォーやビーフンなんかにも「常識に囚われないありとあらゆる可能性を試し尽くす」ような強迫観念じみたエネルギーは存在するのだろうか、と考える。

 幸いながら、パスタはグルテンフリー食材を通販できるので、イタリア料理と「和製スパゲッティ」にかけて存在する多彩かつ完成度の高いレシピを楽しめているが、同じく小麦粉を使わない麺であるフォーとなってくると、本場の一般家庭料理を日本向けにアレンジしたレシピしか手に入らず、バリエーションという点で乏しさを感じることが多いのだ。

 ここ数年、パスタの次くらいにフォーを自分で料理することが増えたが、毎回グルメ漫画の主人公のような気分で「何かダシに加えたらうま味や味の奥行きが増すんだろうか?」などと繊細なことで悩んでたりもする。

 『らーめん才遊記』の終盤において、「ラーメン文化のエネルギーの正体とは何か?」というメタな問いに対し、「全てが偽物のフェイクから始まったからこそ本物を追求し続けようとするのだ」という結論が用意されていたが、そうした進化への衝動はラーメンにかぎった話ではなく、もっと広く存在してもいいのになと思うところがあった(もちろん、単に一般家庭の台所まで存在が知られていない創作エスニックなどもあるのだと思うが)。

 久部緑郎による原作も非常に力のあるものだが、河合単による絵もすごくいい。グルメ漫画は高い画力を要求されやすいジャンルだと感じるが、料理描写だけでなく、ここぞという時に見せるキャラクターの表情の描写があまりにも「的確」で惚れ惚れとする。
 人物の主線は妙に太さがヨレていたり、特に若い女性キャラの顔立ちは美少女系のデザインを参考にしすぎているのか不自然なデフォルメが行われているような気もするのだが、最終的にはそれも全て「的確」だと思わせてしまうような圧倒的な筆力がある。
 それだけに始終、「いい漫画を読んでるな」という幸せな感覚があった。

 最後に、「ラーメンハゲ」というネットミームとして知られすぎている芹沢達也の人物像について、通して読んだ立場からの私見を少し。
 彼の本質を表しているのは「勝つことが好き」という、極度に負けず嫌いな側面なのだろうと思う。
 周知のネットミームからは、ビジネスとして現実的にラーメンを売ろうとする、リアリストの面を第一印象として受けるかもしれないが、そもそも「ヤツらはラーメンを食ってるんじゃない。情報を食ってるんだ!」という彼の自信たっぷりな持論は、すぐさま主人公(藤本浩平)の職人魂によって乗り越えられている、という厳然とした事実がある。実際にそのオチを読んだ読者に印象付けられるのは、「意外と職人としてのプライドのある人なんだな」という意外性だろう。

 ただし、続く『らーめん才遊記』と読み比べてみても気付くのは、彼が異様に「勝つことが好き」で「他人を負かすことが好き」という、ひたすら「強さ」のみを軸にして行動する人間だということだ。
 そう考えると、「発見伝」で垣間見せる職人的なプライドも、商売人としての合理性も、ただただ「自分は料理人としても、経営者としても負けない」という同じ執念の産物なのだろうという理解ができる。
 つまり、「本当に味の分かる職人やマニア」もギャフンと言わせたいし、店の売上や名声などの実利においても負けたくない、という欲求が根底にあるわけだ。

 「発見伝」においては主人公の藤本、「才遊記」においては新主人公である汐見ゆとりと「奇妙な師弟関係」とでも呼べる深い交流を結ぶ芹沢だが、その発端はだいたい「一度楯突いてきた人間に自分のほうが上だとわからせたい」という、わからせおじさん的な性根である。
 あくまでラーメンの勝敗に関しては正直な人間でもあるので、相手が一矢報いて乗り越えてきた時には素直に認めるという、ツンに混ざったデレが魅力でもあるキャラクターだが、相手を評価するにしても「強さ」にこそ価値を置く人間だという点で一貫していると言えるだろう。

 ラーメン評論家の有栖に一目を置いているのも、その知識量や見識の確かさを「強さ」の一部として見ているからではないだろうか。彼が「ラーメン知識」においても本当は負けたくない、と思っていそうなことは想像に難くない。
 だからこそ、芹沢は「職人」「商売」「評論」といった、お互いに重なりそうにないジャンルに対しても、同じノリで高い目線から発言できる人物として重宝されるのだろう。

 そして「強さ」の世界で生きる人間にとっては、「衰え」に直面しなければならない時が必ず来る。
 過去作では名脇役だった芹沢が、一転して主人公を担うことになった「再遊記」で焦点に当てられているテーマのひとつが、「強さ」という概念にメタな視点を生み出す「衰え」だろう。

 ラーメン雑学のほうが印象に残るこのシリーズだが、だいたいのエピソードが他の人気グルメ漫画と同じく、「料理対決」を軸に展開してきた。一種のバトル漫画の要素が物語を牽引してきたわけだ。
 ラーメン文化を論じる上で、料理バトルは物語のカンフル剤にはなるが、リアリティを求めるならフィクション性が高すぎて余分な要素だと言えるかもしれない。それこそ、芹沢の「らあめん清流房」で濃口らあめんにぶち込まれた牛脂のように。

 グルメにおいては本来不要なはずの「バトル」だが、力としての「強さ」に視点を変えると、料理の世界は様々なレベルでの強さが競われている。

 「発見伝」は数々のラーメン対決を通して主人公の藤本が「本物のラーメン職人」へと成長する物語だし、同じく「才遊記」はゆとりがラーメン文化に目覚めて理解する物語だった。そこでのバトルはまさにカンフル剤の役割を果たしていたが、脇役といえば脇役の要素ではあった。
 そして「再遊記」では、その不純なバトル要素や「強さ」に対してメタな視点で向き合わざるをえなくなった芹沢の立場を描くことで、案外と、「よりラーメン漫画らしいラーメン漫画」が成り立っているのかもしれない。

 あたかも、濃口らあめんにとって余計な味だった牛脂(しかし商売上は必要だったモノ)を、藤本がネギ油で改良し、後に自身でも克服して高いレベルへ昇華したことにも似るように。