漫画(VTuber)研究者の読む『青春ヘラ』Vol.7「VTuber新時代」~その②~

 どうも、漫画研究者としては『ユリイカ』の2008年6月号にて商業デビューし(初期は「イズミ」名義)、後に『ユリイカ』の2018年7月号VTuber論が掲載されることにもなった、泉信行と申します。


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 前回から取り上げている同人誌、『青春ヘラ』Vol.7「VTuber新時代」ですが、自分は21日の東京のイベントではなく関西のイベントでフライング気味に購入できていましたので、内容の評価の公開はしばらく控えることにしていました。
 イベント後も5月24日発送予定の通販が全国区の入手チャンスとして残っていますが、全3回の予定でエントリ化を始めています。

前置き

 これらのエントリの草稿としているのは、あくまで「研究目的のメモ」であり、建設的な批判検討が主になっています。
 なので、取り上げない記事もありますし、面白かったところやいいところには逆に言及するでもない内容になると思いますが、念のためご了承下さい。

 その代わりに、「VTuber研究」としてこの本を読み解こうとした場合は、漫画研究者/VTuber研究者としての専門的な注釈となりますし、併せて必読とされるべき記事となるだろうと確信しています。
 奇遇にも今回は、従来の「漫画・アニメ研究」の成果を応用した論考も多く、自分は漫画論/VTuber論の両面から必要なだけの批判を行える立場だと思われるからです。

(p74~)ヒグチ:なぜVTuberの身体は活動を通じて、ただひとつの「魂」と離れなくなってしまうのか

 2回目で、ぜひ取り上げたいと思うのは、以下のような論考となる(以下敬称略)。

ヒグチ:なぜVTuberの身体は活動を通じて、ただひとつの「魂」と離れられなくなってしまうのか ~IEB概念の提示による三層理論のアップデート~
かつて難波優輝氏によって提唱された「三層理論」をもとにしながら、新たにVTuberの「内面」に焦点を当て、演者とキャラクターが交換不可能性を獲得していくプロセスを解説していく論考。「シャドウ」や「IEB」など、これまで設定されてこなかった論点を打ち出し、既存の理論では説明出来ないVTuberについても考えられており、必読の文章です。
note.com

 まずタイトルで「三層理論を元にしたアップデート」と示唆しながら、中身を確かめてみると「換骨奪胎」どころか「塵も残さない」ほどにオリジナルの跡形をなくしているのは逆に驚いたし、感心できるところだった。

 その新たに提唱しているモデルについては、改めて今後の批評に耐えなければならないと思うが、ここでは初見して気になった2点についての指摘を残しておこうと思う。

 なお、改めて強調しておかなければならないと思うが、研究目的でこの論を参照しようとした場合、以下から始まる指摘は必ず目を通してほしい
 ある特定の議論を経ていない大抵の人にとっては、この論考を読むだけでは見過ごしてしまうだろう問題が多く含まれているからだ。

1点目―p80脚注より

5 ここでの「属性」は東浩紀のとなえた「データベース消費」(物語・エピソード・因果関係を伴わない特徴を消費する様式)を意識したもの。

 まず、ヒグチは自説のキーワードを整理する際に、漫画評論家伊藤剛や、哲学者の東浩紀らの言説を参照している。
 そしてこの脚注では、「キャラ属性」という用語を設定するにあたり、東の「データベース消費」論を前提としたことが述べられている。

 さて、「三層理論」をアップデートするという文脈においては、難波のWeb版「バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン・ペルソナ・キャラクタ」に遡ってみたほうがよい。

 『ユリイカ』版のプロトタイプであるこのWeb版において、難波は松永伸司「キャラクタは重なり合う」(2016)を直接参照し、その松永論で参照されている高田敦史「図像的フィクショナルキャラクターの問題」(2015)を間接的に参照してはいるが、難波は高田論の詳細をほぼ無視して「三層理論」を展開していたことに、根本的な問題があった。

 そして、その高田論で参照されているのが伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』であり、伊藤が参照しているのが東浩紀のデータベース消費論であることを踏まえれば、正当な研究的手続き(「参考文献の参考文献の参考文献の参考文献をちゃんと読む」)で批判検討が行われているとも言える。

 また、高田は漫画研究の分野からは伊藤だけでなく、後に泉信行の論考も参照しようとしている
 つまり高田にとってこの研究は、美学・哲学だけでなく漫画研究(細分化するなら「漫画表現論」という分野)への目配せも強くあるものだった。

元々私の論文自体、分析美学におけるフィクションの哲学や描写の哲学の問題をマンガ表現論や批評の文脈に接続することが狙いのひとつだったので、
「キャラクタは重なり合う」は重なり合う - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

 そう考えてみるとヒグチの論考は、VTuber研究において「難波・松永」よりも「高田・伊藤」の論点を取り戻す結果になっている、とも評価できるだろう。

 では、東のデータベース消費論にも論点を戻そう。
 ヒグチの「キャラ属性」というキーワードは「東を意識したもの」とされていて、必ずしも同一内容でもない、と解る。
 実際、東が主にキーワードとしていたのは「属性」ではなく「萌え要素」というフレーズだったからだ。

 だが、一方で「キャラ図像」という別のキーワードが登場している。その引用元としては、伊藤剛キャラ/キャラクター」論を指して「理論をベースに」考えた、としているのだ(p89)。であるならば、その伊藤論がどう東論を応用していたのか、という文献への理解は充分に必要である。

 ここでの問題を確認しよう。つまり、ヒグチ論における「キャラ属性」が「東論の萌え要素」と同一である必要はない。ただし、「キャラ図像」を引用して論じる場合には、「伊藤論に組み込まれた萌え要素」への理解が必要となる

 漫画研究に携わる自分の理解においては、伊藤の「キャラ/キャラクター」論においてデータベース消費論が参照される意味は、「消費者のデータベース」をそのモデルに組み込むことの必然性にある。

 なぜデータベースモデルが必要とされるのかというと、「キャラに対するデータベースは常に更新され新しい要素が追加される」という側面を考慮しなければならないからだ。

 そうした必要性からすると、難波論における「フィクショナルキャラクタ」(詳細は省くが、理屈上はほぼ伊藤論における「キャラ図像」と同一の概念を扱った用語)の論じられ方と共通した欠陥があることをヒグチ論にも指摘することができる。

 即ち、静的なデータとして捉えやすい「キャラ図像」に対して、「キャラ属性(萌え要素)」は本来、静的で固定された情報ではないという肝心な視点が、どちらにも欠けているのだ。

 例えば、「金髪ツインテールのツリ目美少女」のキャラ図像からツンデレを印象付けるといった結び付けの強さが(オタク的な)データベース消費のモデルだと言える。
 そしてもちろん、このツンデレのイメージは「消費者やコミュニティに蓄積されたデータベースの投影」であって、キャラ図像そのものに埋め込まれたものではなく、プロフィール設定や表情・言動の変化(それらを伊藤論では「背後に人生や生活を想像させるもの」と定義している)などが与えられるまで固定されはしない。

 そもそも「ツンデレ属性」自体が、冷たい印象との「ギャップ」を利用した属性であったように、コミュニティにとってその見た目の印象が変化すれば、キャラ属性はそのフィードバックを常に受け続ける。

 ツンデレ以外で具体例を挙げるなら、「女騎士」とか「気の強い女」といったバズワードを目にした時、ある種のミームを知る人と知らない人とで、その言葉の次に思い浮かぶフレーズがいかに変わるかを考えてみてもいいだろう。


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 それゆえ、ヒグチ論は「キャラ属性」と別のレイヤーに「キャラ表現」という新たな情報を付け加えようとするが、そこに無視できない問題が生じる。

 例えば、p86の例示では月ノ美兎の「キャラ属性」を「お堅いクラス委員長」とし、「キャラ表現」をそのキャラ図像やキャラ属性から想像しがたい、それらを侵食する内容だとしている。

 だが第一に、ねづみどしの手掛けた月ノ美兎の公式ビジュアルや、「性格はツンデレだが根は真面目」という公式プロフィールから「お堅い」というキャラ属性を一意的に導き出すこと自体が難しくはないだろうか?

 どちらかというと、月ノの顔は丸めの童顔で、タレ目であり、全体に小柄に見える肉付きだったりと、むしろ初めから「黒髪ロングの優等生キャラ」の典型から外そうとした個性が見られる。

 そこにあえて「お堅い」という属性付けを行ったのは、まさしく論者のデータベースに基づくものにすぎないし、仮にぼくの個人的なデータベースに基づかせるなら、むしろ「真面目で気弱そうなドジっ子」などを連想する。ツンデレっぽいかというと疑問だが、「本人は頑張っているが少し空回り気味」という(本人のデビュー前から書かれていた)公式プロフィール文とも、その連想イメージは矛盾しない。

 その上で、データベース消費論を参照するまでもなく、「キャラ図像から連想される属性がアップデートされ続ける」という現象は多くのフィクションで確かめることができるだろう。

 近年の例では、『ジャヒー様はくじけない!』が読まれた後の「女魔王キャラ」『姫様"拷問"の時間です』が読まれた後の「魔王キャラ」にどのような先入観が与えられるかを考えてみるといいだろう。

 それらの例は単なる主観にすぎないという反論もされるだろうが、それならば金髪ツインテールからツンデレを連想することも、黒髪ロングに「お堅い」印象を与えることも、主観(文化やコミュニティのデータベース)に拠るものにすぎない、と批判しなければならなくなるはずだ。

 以上の通り、「キャラ属性」とそれを裏切る「キャラ表現」を区別可能とするモデルは、難波がフィクショナルキャラクタを論じる方法と共通する問題を抱えている。

 その問題は、伊藤の「キャラ/キャラクター」論を注意深く検証することで解決に近づきやすくなるはずだった。
 だが、難波は「参考文献の参考文献の参考文献」まで辿ろうとすることはなく、ヒグチは『テヅカ・イズ・デッド』を参照してはいたものの、その含意を取りこぼしたまま引用を行っている。

 ただ、高田の「図像的フィクショナルキャラクター」を無思慮に孫引きしていた難波の「フィクショナルキャラクタ」と比べるなら、「キャラ図像」の用語を採用し直しているだけ、ヒグチが批評的に前進しているのは確かだろう。

 なお、高田論をきちんと読めば理解できるはずだが、まず高田は「フィクショナルキャラクター」という術語に「図像を伴わないキャラクター全般(例えば挿絵のない小説の登場人物など)」を包括させながら、「図像的フィクショナルキャラクター(挿絵のある登場人物や漫画・アニメのキャラなど)」を狭義に分類している。

 ところが、難波は「図像として表象されたキャラクター」を指して「フィクショナルキャラクタ」という言葉を定義しているため、そもそも完全な誤用であるし、用語選択の時点で先行研究の文脈も破綻させてしまっていることが分かる。

2点目―p87より

 次の指摘箇所に進んでみよう。p86で、先述したように月ノ美兎を取り扱った後、壱百満天原サロメを「その発展型」として挙げる項目がある。

そして2022年に登場する壱百満天原サロメは更にその発展型であり、〔中略〕

キャラ図像:フリフリのドレスで、髪を縦ロールにしたお嬢様
キャラ属性:お嬢様にあこがれる一般人。キャラ図像をキャラ属性が裏切ることで、ここで既に〔中略〕壱百満天原サロメの登場の特筆性がある。

 さて、執筆当時の時点で、サロメに特筆性があると記したい背景は分かるものの、やはり「キャラ属性/表現」の理解に不備があるためか、他の事例を捉え切れなくなっているように思える。

 例えば、月ノ美兎の後輩から挙げるのなら、元にじさんじ2期生である物述有栖でも全く同じ説明はできるからだ。

16歳の高校1年生。転校を繰り返すが、別に帰国子女と言うわけでもない。
母がイギリス人、父が日本人のハーフだが、日本生まれ日本育ちの生粋の日本人。
物述有栖 | にじさんじ

 物述有栖も、前出の「怖くない魔王キャラ」たちと同じく、二次元のフィクションでしばしば見かける(つまり「オタクのデータベース」に登録されやすい)属性……、「合法ロリ」に属するプロフィールで登場している。もっとも、16歳も未成年である以上、厳密には別の呼び方があったほうがいいのだが。

 そこで物述有栖にとっての「合法ロリ」は、よくあるキャラクター設定というだけでなく、「VTuberとしての振る舞い」(ヒグチ論で言うところの「キャラ表現」)と矛盾しない形でキャラ図像を侵食していく属性になっている。
 その点において、サロメの個性である「お嬢様の姿のまま庶民の生活をするキャラ」と重なっているだろう。

 そして、フィクションのキャラクターにおいて「図像を裏切る属性」は頻繁に創作され続けられているのだ。「お嬢様に憧れてお嬢様らしく振る舞う庶民」にしても、マイナーでありこそすれ皆無だったわけではない。

storia.takeshobo.co.jp

 それでもサロメの側に特筆性があると主張するということは、「物述有栖のキャラ属性はギャップがなかった」と言うも同然のことだ。「物述のキャラ図像だけを見て、誰しも合法ロリを読み取ることが可能だった」という、ありもしない前提を主張することになるはずだろう。

 図像からの「誤読」をプロフィールに利用したVTuberとしては、「男の娘キャラ」である鈴谷アキが元1期生にいることも、どう評せるのだろうか。

 日本の二次元キャラクター文化において、ビジュアル面から「男の娘である」という事実を巧妙に伝える表現は発達しているものの、イラストを担当するねづみどしの表現はむしろその逆で、図像レベルだけでは性別を判断させない描き方が用いられているのだから。
(鎖骨や肩幅の造形などで、目立たなく表現しているタイプだと言える。)

 ところで、物述有栖を軸に論を広げてみると、キャラ図像からは「髪色」と「人種」の見分けがキャラ属性と干渉しやすいことが分かる。

 にじさんじ内では、物述有栖の他、ブロンドヘアの卯月コウ星川サラが白人とのハーフ。亜麻色の髪のシスター・クレア出生不明の孤児として人種的特徴を示唆した髪色となっている。
 ただ、かといって鈴谷アキ、鷹宮リオン神田笑一らの金髪を見ただけで白人系と判断するのは浅はかである、というのが日本のオタクにとって一般的な「データベース」だろう。緑髪やピンク髪と同様、「そういう色」でしかないのかもしれないし、いわゆるブロンドではなく「黄色」だったりするのかもしれないのだから。

 逆に、いわゆる「プリン頭」によって髪を染めた日本人だというヒントを図像的に与えていたのが家長むぎであった。

2点を総合して

 以上のように、ヒグチ論は「キャラ図像」と「キャラ属性」を区別して名付けた点では前進していると評価できるだろう。だが、伊藤剛の「キャラ/キャラクター」論という先行研究を踏まえた批評としては、難波論と同じ不備を抱えたままになっている。

 難波も「フィクショナルキャラクタ」(繰り返すが、これは「フィクショナルキャラクター」ではなく「キャラ図像」と理解してよい)のイメージを裏切る活動からVTuberのイメージが形成されるのだ、という主張を行っていたが、

  1. キャラ図像の「イメージ」とは誰が決めるものなのか? への解答がない(→伊藤や東の理論を援用できるはずだが、そうした考察はない)
  2. 加えて、キャラ図像からのイメージ(=キャラ属性)には、図像そのものと無関係なイメージが勝手に付随してくるケースがあることも考慮されていない
  3. プロフィール文が「キャラ図像のイメージ」に反するという事例と、活動内容が「キャラ図像のイメージ」に反するという事例を区別しないまま、読者の混同を許す論じ方をしている

という欠陥があった。

 ヒグチ論は、「プロフィール」「キャラ属性」をキャラ図像から切り離すことで、3.の欠陥は一見乗り越えているのだが、1.と2.の問題は受け継いでいると言える。

 ヒグチ論における問題は、VTuberの活動中における「演じそこない」に着目している点にあると思われる。
 キャラ図像からのイメージにせよ、公式に書かれたプロフィールにせよ(この「図像のイメージ」と「プロフィール」を同じ「キャラ属性」で括ること自体に無理が生じていると思われるが)、その内容に従いきれずに逸脱した振る舞いの蓄積こそを「キャラ表現」とみなしていると読むことができる。

 が、その視点で物述有栖とサロメをそれぞれ眺めるとしたらどうだろう。

 物述有栖の場合、「属性を演じ損なう」としたらむしろキャラ図像通りの「幼さ」ではなく「16歳のJK」らしからぬ部分、ということになるはずだ。
 16歳より幼くても、年長(成人女性)めいても逸脱したキャラ表現となる、という捉え方になるだろうか?
(ちなみに、難波論においては「物述有栖がしっかり16歳らしい振る舞いを徹底する」と、「フィクショナルキャラクタの幼いイメージを裏切る、16歳のパーソンの層が現れたのだ」というエラーめいた解釈が生まれることはよく覚えておいてほしい。)

 壱百満天原サロメの場合、そもそもプロフィールの時点で一般人であるため、むしろ演じ損なうとしたら「実はお嬢様にはそんなに憧れていない」といった部分が想定できるだろうか。

 しかしヒグチ論では、この「プロフィール(キャラ属性)」のなかに「演者の内面が提示されている」という解釈をしている。そうした理解を良しとできるというのは、単に「キャラ属性」と「キャラ表現」の峻別が曖昧なまま考察しているためではないだろうか。

 例えば、にじさんじ以外の有名なVTuberに目を向けてみよう。
 オーディション時点のテキストでは

海賊風の格好はしているが主に陸にいるエセ海賊。
VTuber事務所ホロライブ3期生「ホロライブファンタジー」オーディション実施のお知らせ|カバー株式会社のプレスリリース

と書かれていたのが、デビュー時に

海賊船を買うのが目標で今は陸でVTuberをしている。
(ようするには今はただの海賊コスプレ女)
hololive.hololivepro.com

と微調整が加えられた宝鐘マリンにしても、「エセ」「コスプレ」という部分は既に「キャラ図像を裏切るキャラ属性」であり、「キャラ表現の提示」と呼べるはずなのだから。これらを現状のヒグチ論ではどう評せるのだろうか?

 改めて検討し直すなら、VTuber論において適用可能と考えられるのは「キャラ図像」を術語として選んだことに留まるだろうと思う。

 「キャラ属性」に関しては、伊藤論に基づき、データベース消費のモデルをオミットせずに(「意識した」で済ませず)、VTuber鑑賞の実態に沿わせていく必要がある。
 もちろん、「実態に沿わせる」という意味では、元ネタの東浩紀から結果的に離れていくというぶんには構わないはずだ。それこそが建設的な批判というものだろう。

 VTuberという存在は、キャラ属性がキャラ表現と「たまたま一致すること」もあれば、「たまたま一致しない」場合もある。
 それは単なる偶然の一致であったり、VTuberにかぎらず従来のフィクションで繰り返されてきたギャップ表現」と変わらないものであったりする。

 ラプラス・ダークネスの「世界征服を企む秘密結社の総帥で異能者だが、力は人間並みに封印されており、実は礼儀正しかったり女の子らしかったりする」というギャップだけを評価して、『ジャヒー様は~』で楽しまれるような「弱体化した魔王キャラ属性」との差別化はどう付けられるというのか?

hololive.hololivepro.com

 それでは、フィクションのキャラクター(これは難波ではなく、高田の言うところの「フィクショナルキャラクター」)の内面性と、VTuberの内面性はいかに区別できるのだろうか。

 おそらく我々は、自然にその両者の区別を付けられていると考えているはずなのだ。しかし、「何をその判断の基準としているのか」を、誰でも納得できるように説明することは難しい。

 ひとつ、その基準を提案してみよう。実は「キャラ図像からのイメージ」から分析を始めるのではなく、現実の人間や、現実のタレントの捉え方を参考にするだけで充分である。

 現実の人間も、見た目がリアルというだけで、台本は読むし、嘘を吐き、他人のフリや、「他人の操り人形のフリ」ができるからだ。

 例えば、あなたに現実の人間が失礼なことでもした場合、それが「故意」か「過失」か、「他の誰かの指図だったか」を問うのは当然の反応だろう。そして、本人の意思に拠るか否かは「責任」という言葉で審議される。

 VTuberの責任や自由意志、倫理の発生は、キャラ図像と関わりなく、それらと同じ水準で発見される

 芸能界のなかでも、アイドル業界を例に取ろう。
 アイドルが支持される理由には、「お人形」としての魅力が求められるフィクショナルな側面と、「本人の頑張りを保護者のように応援したい」というリアルな側面を併せ持っている。

 その二面性を自覚した運営やプロデューサー、ディレクターらが何を企画するかというと、「体が嘘を付けない」極限に近い状態にアイドルを追い込むことだ。

 お化け屋敷、絶叫マシーンなどの遊園地企画が好まれるのもそうだし、ダンスの特訓、過密スケジュールなども「一般的な若者に想定される体力」のギリギリを感じさせることで、アイドルを「ただのお人形」でなくさせていく。

 ドッキリやアドリブの無茶振りなどで挙動不審にさせ、「台本にありえなさそうな言動」を取らせることも好まれる。そこで注目されるのは、「与えられたキャラを守れているか、崩れているか」といった演技の成否ではなく、身体反応の限界である。

 アイドルのファンは、パフォーマンス中の息切れ、緊張による過呼吸などに「作り物でないリアルさ」を感じるし、立てなくなるほどの事件性のある疲労には衝撃を受ける。

 思わず吹き出すような笑い声、絶叫、涙なども「演技が難しく、仮に演技だとしたらそのほうがシロウトの実力として凄いもの」と判断されやすい。

 例えば「泣き虫」というキャラで売っているアイドルが実際に泣いた時、冷静な目で真贋を判定されているのは「ウソ泣きかどうか」なのだが、さらに言えば「年相応の演技力で可能な範囲かどうか」である。
 つまり、「一般に想定される人間の限界」こそが基準となっており、「キャラ設定と合っているか逸脱しているか」は全く基準とはならない。
 もし設定通りであっても、ウソ泣きが上手すぎたなら「シロウト離れ、子ども離れした役者肌」の個性が立ち上がってくるだろうし、自然な涙を素でこぼしていたなら「自分の感情を設定とか関係なく抑えることのできない素直な子」という個性を与えられることだろう。

 フィクショナルキャラクター(※伸ばし棒付きの場合は高田論のそれを指す)には生身の身体性がない。しかし、VTuberにはある
 そのため、「体が嘘を付けない限界」を探ることが、VTuberの鑑賞にとっては無視できない楽しみ方となる。

 「記憶」が脳や年齢と関係するということは、VTuberの知識の範囲を確かめることも身体性の限界の確認となる。
 フィクショナルキャラクターは、記憶や知識をその身体ではなく外部に管理されているのだから限界などないが、VTuberにとっては「一個の脳の限界の知識しか持たない」ことが個性の証明となるだろう。
 その証明において、「16歳というプロフィールからの逸脱」や「全知の悪魔という正体からの逸脱」などは全く必要ない。ただただ、一人の人間の限界を予感させる内容でありさえすれば充分だからだ。

 加えて、VTuber論者の多くが「キャラクターでなくなることがVTuberである」という問題設定をしてしまいがちなことにも釘を刺しておきたい。

 例えば、『ユリイカ』のバーチャルYouTuber特集号において、批評的にも印象深いエッセイを残していた皇牙サキは、キャラ図像通りのイメージに活動が上乗せされる「ブースト型」と、活動でそれを裏切っていく「ギャップ型」VTuberのスタイルを大きく分ける提案をしていた。
 そこでの彼女は、ブースト型の価値を特に否定していなかったのにも関わらず、ほとんどのVTuber論者は「ギャップ型」の魅力を中心にしてVTuberを論じようとし、「ブースト型」の個性をうまく捉え切れないという傾向があったように思う。

 このブースト型の適切な捉え方としては、「固性は過剰であるべき」というのが言えるかもしれない。例えば、「優しそう」というイメージを与えるVTuberなら「ミュート忘れをしてても優しそう」「オフレポで晒されても優しそう」「天災などの事故や最悪な誹謗中傷に遭っている最中でも優しそう」などの過剰さが現実だった場合にこそ、「ホンモノ」となっていくわけなのだから(また、VTuberが親しい知人でもなく、断片的にしか人格を知り得ないからこそ、こうした過剰な事実を重ねなければ疑ってかかる人を減らせない、とも言える)。

 そういう「過剰さ」の指標を測る際に、ヒグチ論が新たに提唱している「IEB」の概念を持ち出すことはできるかもしれない。このIEB概念については、今回は特に検討を行わない。各自で読んでみて参考にしてほしい。

最後に

 以上のように考えていくと、

なぜVTuberの身体は活動を通じて、ただひとつの「魂」と離れなくなってしまうのか

 この論考タイトルの選択そのものに、誤謬があると言っていいかもしれないと思う。

 個人的には、VTuberに対して「魂」の比喩を当て嵌めること自体に、実態と無関係に発生したスラングで弄んでいる様子、実態を捉えきれてない様子を感じて懐疑的だった。
 その上でこの論考を読み、改めて言えるのは、VTuberにとっては「いくらでも複製される図像」であり、「作り物へと拡散していく図像」をひとつに結び付け、現実に押さえ付けているのは何よりも「肉体」である。

 ウィリアム・ギブスンSF小説『ニューロマンサー』を読んでみてもいい。電脳空間にジャックインする主人公が、現実として干渉してくる自分の側面のことを「(原文ではmeat)」と呼んでいるように。

 また、前回のエントリでは、『ユリイカ』に寄稿された届木ウカのエッセイを引用したが、そこでも「アバターの中の人」とされるものを「アバター」とはっきり呼んでいるのは興味深いことだ(ちなみに『うみねこのなく頃に』がネーミングの元ネタになるらしい)。

 その意味で、VTuberの「肉」に該当するものは、ヒグチ論で三層構造の最下層に位置付けられている「シャドウ」でも説明することができない。
(ちなみに、この「シャドウ」はおそらく「ペルソナ」と合わせてユング心理学の術語に由来していそうだが、だとしても不正確な借用に思える。)

 極端だが、印象深い例を挙げるとするなら、VTuberの喉が「20秒以上のロングトーン」を発揮してもいいし、「50kg台の握力」を報告し続けるだけでも、その人の活動は「他の誰かに取り替え不能なもの」に近付いていく。

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 だから魂の比喩はVTuberを語る上で全くナンセンスで、正常な思考のノイズでしかなく、誠実な評価にとって足手まといですらある。

 まずそこを研究を阻む障害として批判できないことには、真摯な分析を放棄した思考停止のみが残り、VTuber論から見た欺瞞や誤謬を否定しきれない怠惰さを追認するだけになるだろうというのは、常々考えることだ。


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