NTRとエロ漫画に横たわる快楽=「イヤなことやダメなことほどエロい」の倒錯

 去年の夏コミで『〈エロマンガの読み方〉がわかる本』というエロ漫画批評の同人誌に寄稿させていただいたのですが、その第2号である『〈エロマンガの読み方〉がわかる本2 特集:NTR』を献本していただきました。

 

aranoyawa.blog.jp

 


 タイトル通り「NTR(寝取られ)」をテーマにした特集で、総論的なテキストから作家インタビュー、作品論と読み応えがあります。

 
 新野安さんによる「序文」、永山薫さんによる「特別寄稿」が総論にあたる内容となっていますが、共通して「寝取られとは何か」や「なぜ寝取られが流行ったのか」という疑問に結論を求めないことを前提に論を進めています。

 それは、この同人誌全体を通しての前提でもあり、何か結論を出すことよりも、実際に描かれた作品をどう読み、楽しむか(=「エロ漫画の読み方」)にこそ主眼がある本なんですね。

 

 しかし逆に言えば、読者が「寝取られ」について自分で考えるヒントを提供してくれる本としても評価できると思います。

 
 まず「寝取られ」はその命名通りならば「寝取られる男の無力さ」に視点が置かれるのだと解釈できますが、一度ブームが起きてからは「寝取り」「寝取らせ」「寝取られさせ」「寝取らせられ」「寝取られさせられ」……など、言葉遊びのようなレベルで作品構造が細分化していき、原理主義的な立場を取るのが難しくなっていきます。

 寝取られる男が彼氏や旦那だともかぎらず、「片想い寝取られ」という、単に好きな女性が自分以外と寝るだけの話でも「寝取られ」と呼ぶ用法もある。

 「寝取りモノ」にしても、「寝取る男」の視点から「寝取られる女」の視点に転換した「浮気モノ」だとすれば、「それは昔からあったジャンルじゃないか?」という話になるのも当然です。

 
 次に、「なぜ流行ったのか」に関しては、歴史的な変遷を簡単に振り返ることはできても、初期段階では「後味が悪い」「胸糞」などと拒否反応も激しかったテーマが、なぜ今やエロ漫画界を席巻するジャンルへと成長したのか?という問いにはうまくストーリーを与えることができません。

 単に数字に表れるかたちで、寝取られジャンルの需要が大きくなっているように感じられるくらいなのです。 


 永山薫さんのエロ漫画史観では、「マチズモ社会の解体」や「マッチョ信仰の後退」という概念がよく出てきますし、「寝取られる男の無力さ」にマゾヒズムを見ることも可能でしょう。ですが「マゾヒズムによるマチズモの解体」とは、実のところマッチョイズムによる不可抗力をこそ願望し、逆にマチズモを復権させているようにも読める、という逆説も付きまとっています。

 

 

 そもそもサディズム(嗜虐性向)/マゾヒズム(被虐性向)」という二極に分類すること自体、ポルノ用語(もしくは心理学用語)としての歴史は長いものの、「エロ漫画読者の欲望」を表すには限界があるのではないか、と個人的には感じているのです。

 そこで今回は、『〈エロマンガの読み方〉がわかる本2 特集:NTR』の感想に代えて、そうした私見を書いてみたいと思います。 

 

「イヤなこと」「ダメなこと」ほどエロい、という倒錯

  いわゆるSMは「性的倒錯」の一種とされます。そこで言う「倒錯」は「一般的な常識から見た倒錯」でしかなく、「異常」と呼べるとはかぎらない、と注意しておくのは重要ですが*1、いわゆる「特殊性癖」や「変態性欲」がポルノと縁が深いことも確かでしょう。

 
 人によって好みの分かれるそれらを、フェチズムの一種やマニアの嗜好に分類し、「一般的な趣味ではない」と捉えるのは簡単ですし、特定の性癖の流行を「エロ漫画読者の変態化が進んだ」と論じるのも、ヒットの要因として分かりやすいストーリーです。

 
 しかし「寝取られ」ジャンルの流行や、その多様な細分化には、特殊性癖という言葉に限定して片付けられない現象を感じています。

 むしろ「ポルノ全般のエロさ」という広い問題に通底しているのではないか、という意味で、「イヤなことやダメなことほどエロい」という考え方ができるのではないか? 


 人間の感覚は、大きく「快」と「不快」に二分され、より「快」が強まるように行動し、「不快」を避けるか退けるように反応する(「逃走or闘争」反応)機能があると考えられています。*2

 つまり、生存に必要で有利な事柄に関しては「快」、有害で不利な事柄には「不快」を感じるはずなのですが、では「イヤなことやダメなことほどエロい(=快が強い)」とはどういうことなのでしょうか。

 

 進化心理学めいた仮説を考えるなら、おそらく人類史以前から「奪ってはいけないもの、手を出しては危険なもの」ほど希少であり、「生殖上の価値が高い」と認識し、闘争のリスクを上回って興奮する本能があったのだろう……などと想像することはできます。

 その時点では、自分がイヤなこと、というより「他人が嫌がること」と「やってはダメなこと」が直結しているとも言えますね。 


 しかし人類が社会的に発達するに従って、「イヤなことやダメなこと」は目前にある闘争のリスクだけでなく、複雑な未来予測や知識によって作られる抽象的なイメージが加わり、「それは本当に危険を冒す価値があるのか?」の判別が難しくなってくるはずです。

 
 これが元々は原始的な脳の機能だったとすると、複雑に社会化した生活では「リスクに見合うリターン」を直感的に予測しながら「快/不快」に分けるという器用なことはできず、無闇に「ダメなもの」を「快」に入れてしまうだけになっているのではないか?

 
 つまり、「ダメなこと(=他人が嫌がること)だから奪う価値が高い」という即物的な予測は、殺人や窃盗のような「高リスクの利己的な犯罪行為」においても興奮を誘うでしょうが、リスクに見合うリターンがなくても「ダメなこと」と感じるだけで興奮のトリガーになるのではないか、と。

 
 しかし、かといって「人間はダメなことを進んで行うのだ」といった暴論を言っているわけではなく、現実には「理性で結果をイメージすることによる不快」もキチンと存在し、それに対する「逃走」反応によって「ダメな行為」は回避されていると考えられます。 


 脳神経科学者のデイヴィット・イーグルマンは、「人は単一の意思や本性に基づいて行動する」という従来的な人間観を退け、人間の脳は「異なる意見を戦わせる議会制民主主義に近い」と捉えるべきだと主張しています。

 

あなたの知らない脳──意識は傍観者である (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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  その意味で、「ダメなこと=快」という感じ方は議会における少数派であり、平時は「危険なこと=不快」とする多数派に制御されていると言えます。

 それが現実に関わるリスクのない、フィクションや空想においてのみ解放され、その一部がポルノを楽しむことである、と考えてもいいでしょう。

(当然、現実的なリスクによって制御されない人間もいることによって犯罪というものは起こるのですが、そのリスクの高い意思決定がなぜ行われてしまうのか、逆に言えば「普通の人はなぜ制御できていると言えるのか」、というメカニズムを理解する上でもイーグルマンの著書は広く読まれるべきだと思います。)

  

いけないことを追求するエロ漫画史

  ポルノでは、SMやフェチズムにかぎらず、背徳感や罪悪感、リスクやサスペンスがよく利用されます。

 そもそも、性的に気持ちのいい行為の隠語として「いいこと」だけでなく「いけないこと」「いやらしい」が用いられる時点で「ダメなこと=エロ」は社会の通念になっているわけですが。

 

 男性ユーザーにかぎらず、女性ユーザーであっても「痴漢」や「レイプ」といった(現実には明らかにイヤな行為の)ジャンルに人気があることの説明にもなるでしょう。

 

 純愛や和姦に分類される作品でも、相手が若すぎたり、美少女に対して冴えない男の組み合わせだったり、(互いに望んでいたとしても)無計画に避妊をしなかったりとか、世間的には手を出してはダメなこと、早まった判断だとみなされそうな行為によって官能性を高めることは普通にやってるわけです。

 
 ちなみに前号の『〈エロマンガの読み方〉がわかる本』に寄稿していた拙論では、ヒロインの美貌や若さを「希少なもの」や一種の資産、凝縮されたエネルギーのように捉え、その希少価値の高さによって成立するエロ漫画(「高嶺の花」モノ)を論じていました。

 ポルノがある方向のエロさを追求していくと、この「ヒロインの資産的価値」を中心にして物語が回っていくとも考えられます。

 
 寝取られブーム以前のエロ漫画の歴史では、大雑把に見て「純愛(和姦)/陵辱(強姦)」の二大潮流があり、バッドエンドも多く描かれてきました。

 ただ、ゼロ年代頃からバッドエンドはあまり時代の需要に合わなくなってきた、という感覚が広がり、特にコンビニ売り雑誌では和姦モノが主流になっていったという史観を持つ人は多いんじゃないでしょうか(永山薫による「マチズモの解体」史観とも関係するでしょう)。

 
 それも「イヤなことやダメなこと」の快よりも、「バッドエンドの不快」が上回った結果であって、当時の「陵辱」がイヤなことのエロさを追求しようとしたため、ハードにエスカレートしていった反動だったと捉えることもできると思います。 


 それでも「イヤなことやダメなことほどエロい」という法則を追求していった結果、「純愛モノに見せかけて寝取られモノだった」という、胸糞の悪さを露悪的にしたセオリーが誕生し、典型的な陵辱モノのように完全なバッドエンドとも言えないことから「これはすごくエロい」という発見に繋がったのではないか。 


 ここで言う典型的な陵辱モノ、というのはヒロインという価値あるものを「壊す」方向でイメージしているのですが、寝取られは「奪う」ことでヒロインを壊すことなく価値を損なわせるイメージで、暴力的でないぶん、より社会的/倫理的な意味での「いけないこと」に拠っていると考えられるでしょうか。

 
 寝取られは一見、その後ろめたさや胸糞の悪さにエロチシズムを感じることからマゾヒズムと結び付けられやすいのですが、暴力の恐怖からはむしろ遠のいているとも言える。


 さらに、漫画というメディアの性質として、エロ漫画は「読者の視点=性的快楽を共有する対象」が流動的になりやすいことから、寝取られは「どの登場人物の快楽と同調しても、イヤなことやダメなことをしているからエロい」という読み方が成立しやすくなります。

 物語のベースは同じようでも、「寝取られ」が「寝取り」にも「浮気」にも読めるようになるのはその性質によるものでしょう。 

 また、視点が流動的ななかでは「サディズムマゾヒズム」の二分法が意味を成さなくなっていく、とも言える。


 このように考えてみると、現代のエロ漫画界における「寝取られ」ブームは、もっと広い範囲で行われている「イヤなことやダメなことほどエロい」という法則を模索する表現の一部である、という見方ができるようになると思います。 


 先述した妊娠リスクもそうですが、貞操観念のないヒロイン(いわゆる「ビッチ」「痴女」モノ)、援助交際、近親相姦。プレイ内容だけを見ても飲精やアナルセックスなどの非生殖行為。常識的にはイヤなことやダメなことだと理解しつつそれらを行ったり、イヤなことやダメなことの「はずなのに」抵抗感なく好んでやってしまう(してくれる/してほしがる)、という表現は普遍的に試され続けているわけです。

 
 もちろん、暴力的な悲壮感や絶望感にこそエロスの極致を求める潮流も失われてはいませんが、ヒットの要因として「不快に振り切らないイヤなことやダメなこと」のバランスが今のエロ漫画界では模索され続けているのではないか、と言えるかもしれません。 


 背徳的な行為にしても、いわゆる「即堕ち」に物足りなさを感じたり、淫乱であっても良識や恥じらいは保っていたほうがいいとか、綱渡りのように難しいバランスを要求する声はよく聞くものです。 


 その絶妙なバランスを究める試みのひとつとして「寝取られ」は一種の絶頂を迎えたジャンルであり、だからこそ今も派生作品が求められ続けていると評価できる気がしています。

*1:「異常=アブノーマル」という観念は必ず「正常=ノーマル」という比較対象に依拠しており、何が「ノーマル」なのかを規定することに繋がります。「正常」の実在を認めることが「異常」を生み出すとも言い換えられますが、「正常さの基準」を判断する権利などは誰にもなく、根拠の欠いた差別を生み出すことを忘れるべきでない言葉だと考えます。

*2:さらに、逃走も闘争もできない極限状態では「緊張」が発生し、死の直前には苦痛を和らげるために快楽を覚える、という説もあり、「エロスとタナトス」によって官能性を説明することもありますが、それは今回わけて考えておきます。