NTRとエロ漫画に横たわる快楽=「イヤなことやダメなことほどエロい」の倒錯

 去年の夏コミで『〈エロマンガの読み方〉がわかる本』というエロ漫画批評の同人誌に寄稿させていただいたのですが、その第2号である『〈エロマンガの読み方〉がわかる本2 特集:NTR』を献本していただきました。

 

aranoyawa.blog.jp

 
 タイトル通り「NTR(寝取られ)」をテーマにした特集で、総論的なテキストから作家インタビュー、作品論と読み応えがあります。

 
 新野安さんによる「序文」、永山薫さんによる「特別寄稿」が総論にあたる内容となっていますが、共通して「寝取られとは何か」や「なぜ寝取られが流行ったのか」という疑問に結論を求めないことを前提に論を進めています。

 それは、この同人誌全体を通しての前提でもあり、何か結論を出すことよりも、実際に描かれた作品をどう読み、楽しむか(=「エロ漫画の読み方」)にこそ主眼がある本なんですね。

 

 しかし逆に言えば、読者が「寝取られ」について自分で考えるヒントを提供してくれる本としても評価できると思います。

 
 まず「寝取られ」はその命名通りならば「寝取られる男の無力さ」に視点が置かれるのだと解釈できますが、一度ブームが起きてからは「寝取り」「寝取らせ」「寝取られさせ」「寝取らせられ」「寝取られさせられ」……など、言葉遊びのようなレベルで作品構造が細分化していき、原理主義的な立場を取るのが難しくなっていきます。

 寝取られる男が彼氏や旦那だともかぎらず、「片想い寝取られ」という、単に好きな女性が自分以外と寝るだけの話でも「寝取られ」と呼ぶ用法もある。

 「寝取りモノ」にしても、「寝取る男」の視点から「寝取られる女」の視点に転換した「浮気モノ」だとすれば、「それは昔からあったジャンルじゃないか?」という話になるのも当然です。

 
 次に、「なぜ流行ったのか」に関しては、歴史的な変遷を簡単に振り返ることはできても、初期段階では「後味が悪い」「胸糞」などと拒否反応も激しかったテーマが、なぜ今やエロ漫画界を席巻するジャンルへと成長したのか?という問いにはうまくストーリーを与えることができません。

 単に数字に表れるかたちで、寝取られジャンルの需要が大きくなっているように感じられるくらいなのです。 


 永山薫さんのエロ漫画史観では、「マチズモ社会の解体」や「マッチョ信仰の後退」という概念がよく出てきますし、「寝取られる男の無力さ」にマゾヒズムを見ることも可能でしょう。ですが「マゾヒズムによるマチズモの解体」とは、実のところマッチョイズムによる不可抗力をこそ願望し、逆にマチズモを復権させているようにも読める、という逆説も付きまとっています。

 

 

 そもそもサディズム(嗜虐性向)/マゾヒズム(被虐性向)」という二極に分類すること自体、ポルノ用語(もしくは心理学用語)としての歴史は長いものの、「エロ漫画読者の欲望」を表すには限界があるのではないか、と個人的には感じているのです。

 そこで今回は、『〈エロマンガの読み方〉がわかる本2 特集:NTR』の感想に代えて、そうした私見を書いてみたいと思います。 

 

「イヤなこと」「ダメなこと」ほどエロい、という倒錯

  いわゆるSMは「性的倒錯」の一種とされます。そこで言う「倒錯」は「一般的な常識から見た倒錯」でしかなく、「異常」と呼べるとはかぎらない、と注意しておくのは重要ですが*1、いわゆる「特殊性癖」や「変態性欲」がポルノと縁が深いことも確かでしょう。

 
 人によって好みの分かれるそれらを、フェチズムの一種やマニアの嗜好に分類し、「一般的な趣味ではない」と捉えるのは簡単ですし、特定の性癖の流行を「エロ漫画読者の変態化が進んだ」と論じるのも、ヒットの要因として分かりやすいストーリーです。

 
 しかし「寝取られ」ジャンルの流行や、その多様な細分化には、特殊性癖という言葉に限定して片付けられない現象を感じています。

 むしろ「ポルノ全般のエロさ」という広い問題に通底しているのではないか、という意味で、「イヤなことやダメなことほどエロい」という考え方ができるのではないか? 


 人間の感覚は、大きく「快」と「不快」に二分され、より「快」が強まるように行動し、「不快」を避けるか退けるように反応する(「逃走or闘争」反応)機能があると考えられています。*2

 つまり、生存に必要で有利な事柄に関しては「快」、有害で不利な事柄には「不快」を感じるはずなのですが、では「イヤなことやダメなことほどエロい(=快が強い)」とはどういうことなのでしょうか。

 

 進化心理学めいた仮説を考えるなら、おそらく人類史以前から「奪ってはいけないもの、手を出しては危険なもの」ほど希少であり、「生殖上の価値が高い」と認識し、闘争のリスクを上回って興奮する本能があったのだろう……などと想像することはできます。

 その時点では、自分がイヤなこと、というより「他人が嫌がること」と「やってはダメなこと」が直結しているとも言えますね。 


 しかし人類が社会的に発達するに従って、「イヤなことやダメなこと」は目前にある闘争のリスクだけでなく、複雑な未来予測や知識によって作られる抽象的なイメージが加わり、「それは本当に危険を冒す価値があるのか?」の判別が難しくなってくるはずです。

 
 これが元々は原始的な脳の機能だったとすると、複雑に社会化した生活では「リスクに見合うリターン」を直感的に予測しながら「快/不快」に分けるという器用なことはできず、無闇に「ダメなもの」を「快」に入れてしまうだけになっているのではないか?

 
 つまり、「ダメなこと(=他人が嫌がること)だから奪う価値が高い」という即物的な予測は、殺人や窃盗のような「高リスクの利己的な犯罪行為」においても興奮を誘うでしょうが、リスクに見合うリターンがなくても「ダメなこと」と感じるだけで興奮のトリガーになるのではないか、と。

 
 しかし、かといって「人間はダメなことを進んで行うのだ」といった暴論を言っているわけではなく、現実には「理性で結果をイメージすることによる不快」もキチンと存在し、それに対する「逃走」反応によって「ダメな行為」は回避されていると考えられます。 


 脳神経科学者のデイヴィット・イーグルマンは、「人は単一の意思や本性に基づいて行動する」という従来的な人間観を退け、人間の脳は「異なる意見を戦わせる議会制民主主義に近い」と捉えるべきだと主張しています。

 

あなたの知らない脳──意識は傍観者である (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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  その意味で、「ダメなこと=快」という感じ方は議会における少数派であり、平時は「危険なこと=不快」とする多数派に制御されていると言えます。

 それが現実に関わるリスクのない、フィクションや空想においてのみ解放され、その一部がポルノを楽しむことである、と考えてもいいでしょう。

(当然、現実的なリスクによって制御されない人間もいることによって犯罪というものは起こるのですが、そのリスクの高い意思決定がなぜ行われてしまうのか、逆に言えば「普通の人はなぜ制御できていると言えるのか」、というメカニズムを理解する上でもイーグルマンの著書は広く読まれるべきだと思います。)

  

いけないことを追求するエロ漫画史

  ポルノでは、SMやフェチズムにかぎらず、背徳感や罪悪感、リスクやサスペンスがよく利用されます。

 そもそも、性的に気持ちのいい行為の隠語として「いいこと」だけでなく「いけないこと」「いやらしい」が用いられる時点で「ダメなこと=エロ」は社会の通念になっているわけですが。

 

 男性ユーザーにかぎらず、女性ユーザーであっても「痴漢」や「レイプ」といった(現実には明らかにイヤな行為の)ジャンルに人気があることの説明にもなるでしょう。

 

 純愛や和姦に分類される作品でも、相手が若すぎたり、美少女に対して冴えない男の組み合わせだったり、(互いに望んでいたとしても)無計画に避妊をしなかったりとか、世間的には手を出してはダメなこと、早まった判断だとみなされそうな行為によって官能性を高めることは普通にやってるわけです。

 
 ちなみに前号の『〈エロマンガの読み方〉がわかる本』に寄稿していた拙論では、ヒロインの美貌や若さを「希少なもの」や一種の資産、凝縮されたエネルギーのように捉え、その希少価値の高さによって成立するエロ漫画(「高嶺の花」モノ)を論じていました。

 ポルノがある方向のエロさを追求していくと、この「ヒロインの資産的価値」を中心にして物語が回っていくとも考えられます。

 
 寝取られブーム以前のエロ漫画の歴史では、大雑把に見て「純愛(和姦)/陵辱(強姦)」の二大潮流があり、バッドエンドも多く描かれてきました。

 ただ、ゼロ年代頃からバッドエンドはあまり時代の需要に合わなくなってきた、という感覚が広がり、特にコンビニ売り雑誌では和姦モノが主流になっていったという史観を持つ人は多いんじゃないでしょうか(永山薫による「マチズモの解体」史観とも関係するでしょう)。

 
 それも「イヤなことやダメなこと」の快よりも、「バッドエンドの不快」が上回った結果であって、当時の「陵辱」がイヤなことのエロさを追求しようとしたため、ハードにエスカレートしていった反動だったと捉えることもできると思います。 


 それでも「イヤなことやダメなことほどエロい」という法則を追求していった結果、「純愛モノに見せかけて寝取られモノだった」という、胸糞の悪さを露悪的にしたセオリーが誕生し、典型的な陵辱モノのように完全なバッドエンドとも言えないことから「これはすごくエロい」という発見に繋がったのではないか。 


 ここで言う典型的な陵辱モノ、というのはヒロインという価値あるものを「壊す」方向でイメージしているのですが、寝取られは「奪う」ことでヒロインを壊すことなく価値を損なわせるイメージで、暴力的でないぶん、より社会的/倫理的な意味での「いけないこと」に拠っていると考えられるでしょうか。

 
 寝取られは一見、その後ろめたさや胸糞の悪さにエロチシズムを感じることからマゾヒズムと結び付けられやすいのですが、暴力の恐怖からはむしろ遠のいているとも言える。


 さらに、漫画というメディアの性質として、エロ漫画は「読者の視点=性的快楽を共有する対象」が流動的になりやすいことから、寝取られは「どの登場人物の快楽と同調しても、イヤなことやダメなことをしているからエロい」という読み方が成立しやすくなります。

 物語のベースは同じようでも、「寝取られ」が「寝取り」にも「浮気」にも読めるようになるのはその性質によるものでしょう。 

 また、視点が流動的ななかでは「サディズムマゾヒズム」の二分法が意味を成さなくなっていく、とも言える。


 このように考えてみると、現代のエロ漫画界における「寝取られ」ブームは、もっと広い範囲で行われている「イヤなことやダメなことほどエロい」という法則を模索する表現の一部である、という見方ができるようになると思います。 


 先述した妊娠リスクもそうですが、貞操観念のないヒロイン(いわゆる「ビッチ」「痴女」モノ)、援助交際、近親相姦。プレイ内容だけを見ても飲精やアナルセックスなどの非生殖行為。常識的にはイヤなことやダメなことだと理解しつつそれらを行ったり、イヤなことやダメなことの「はずなのに」抵抗感なく好んでやってしまう(してくれる/してほしがる)、という表現は普遍的に試され続けているわけです。

 
 もちろん、暴力的な悲壮感や絶望感にこそエロスの極致を求める潮流も失われてはいませんが、ヒットの要因として「不快に振り切らないイヤなことやダメなこと」のバランスが今のエロ漫画界では模索され続けているのではないか、と言えるかもしれません。 


 背徳的な行為にしても、いわゆる「即堕ち」に物足りなさを感じたり、淫乱であっても良識や恥じらいは保っていたほうがいいとか、綱渡りのように難しいバランスを要求する声はよく聞くものです。 


 その絶妙なバランスを究める試みのひとつとして「寝取られ」は一種の絶頂を迎えたジャンルであり、だからこそ今も派生作品が求められ続けていると評価できる気がしています。

*1:「異常=アブノーマル」という観念は必ず「正常=ノーマル」という比較対象に依拠しており、何が「ノーマル」なのかを規定することに繋がります。「正常」の実在を認めることが「異常」を生み出すとも言い換えられますが、「正常さの基準」を判断する権利などは誰にもなく、根拠の欠いた差別を生み出すことを忘れるべきでない言葉だと考えます。

*2:さらに、逃走も闘争もできない極限状態では「緊張」が発生し、死の直前には苦痛を和らげるために快楽を覚える、という説もあり、「エロスとタナトス」によって官能性を説明することもありますが、それは今回わけて考えておきます。

『天気の子』が選択した「ヒロインと世界の天秤」

 『天気の子』を観たのは公開してから一週間ほど経ってからだった。
 前作君の名は。の延長線にありつつ、方向性の異なる面白さを生むことに成功しており、映画監督としての新海誠のバランス感覚は確かなものになったと言っていいと思う。
 後は人の好みになるだろうが、自分のなかでは両作とも甲乙つけがたい感動がある。

 そして『天気の子』について個人的に関心を抱いたのは、ヒロイン救出に至る展開を形作る世界観設定だった。
 何か、今まで見てきた「大事な人と世界を天秤にかける」パターンのお話とは、どうも違う気がした。

 これと似たような類型ってあったかなと記憶を探ってみてもなかなか思い浮かばないので、「新しいな」という印象を受けていたのだと思う。
 以下、この記事の読者が『天気の子』の結末を知っている前提で分析を進めていきたい。

「ヒロインと世界を天秤にかける」の類型

 ヒロインとそれ以外を天秤にかけてヒロインを救う、というだけの話なら、過去にいくらでもある。

 ヒロインが救われることやハッピーエンドを前提にすると、典型的なのは「結果的に両方救う」のパターンで、新海誠の初期作雲のむこう、約束の場所にしても「サユリを救うのか、世界を救うのかだ」という二択を迫る説明的なセリフがあった。それでもヒロイン(サユリ)を救おうとするが、結果的に……という結末になる。

 スケールの大きなファンタジーやSFの場合、「両方救う」と言っても、ヒロイン以外の世界には甚大な犠牲を払ってもらった上で、ギリギリで最悪の事態を回避する、といった決着にもなりやすい。
 そんなパターンを突き破る描き方として、ヱヴァ破の「世界を滅ぼしてでも綾波を救う」があったのだが、『天気の子』の世界観はそれとも似ていない。

ファンタジーとSFにおける災厄の類型

 前提として、ファンタジーやSFの類型の話になるのだが、「災厄」と「犠牲となるヒロイン」を設定する場合、色々な理由でその災厄は「外挿的な超常現象」になりやすい。

 『君の名は。』の「周期的に同じ地点に落ちる隕石」もそうだが、非現実的な、ありえない災厄にすることで寓話性が上がってエンタメにしやすく、「日常に戻る」オチも作りやすくなる。

 超常現象ほど日常に戻しやすい、というのはスーパー戦隊の怪人の能力で石化されたり、食べられたりした被害者は「怪人を倒す」ことで元通りになる、というのをイメージしてもらえばわかりやすいだろう。
 科学的に考えれば、ある現象を元に戻すにはその現象と同等以上のエネルギーがもう一度必要なのでは?と思うところだが、そもそも非科学的なのだからエネルギー収支が問題にならない。

 また、ファンタジーとしての寓話性が上がると、災厄を回避した顛末を「夢オチ」のように扱うことができる。
 『君の名は。』で、主人公たちが超常現象を利用してやったことの記憶が失われて「最初から何もしなかった結果として現実がある(が、しかし……)」という物語としても読めることにもその性質が利用されている。

 これは観客のいる現実と物語を地続きに感じてもらう意味もあって、例えば「世界を救って私たちは英雄扱いされた」だと誰にも体験できない偉人・超人の話になるが、「世界の記憶からなかったことにされる」だと「私たちは同じ夢を見てたかもしれない」という、ありうるかもしれないレベルの話になる。

 他にも「外部からの侵略者を人知れず倒したので世界にとっては丸々なかったのと同じになる」というのはプリキュアシリーズではほぼ毎年そうで、だから例外的に「プリキュアの存在が世間に定着する」というアメコミヒーロー*1のような展開を見せる『ドキドキ!プリキュア 』がかえって際立ったりする。

 外挿的ではなく「現実に内在する災厄」にするとエンタメになりにくい、というのは単純に「地味な設定だから」でもあるが、「現実の災厄」には「現実的な解決策」を採らないとどんな犠牲を払おうがご都合主義感が出るし*2、特に「元通り」はエネルギー収支の観点でやりにくい。
 できるとしたら、災厄は大地震や戦争などではなく、「人質に取られた子どもを見捨てるか犯罪者の要求を呑むかを選ぶ」や「危険地帯に取り残された子どもを救いに決死隊を送り込むか選ぶ」といった、まさに実録ドラマの題材にでもなりそうな話になるだろう。

 新海誠は『君の名は。』について「災害の死者を代償もなく蘇らせる映画だ」と批判されてショックを受けたというが、そもそも「あの隕石衝突はほとんど超常現象だったじゃないか」という錯誤は感じるものの、彼に「現実を連想させる災厄を解決する物語の難しさ」を強く意識させる切っ掛けにはなったはずだ。
 明白なSF設定として「外挿的な災厄」を描いていた『雲のむこう、約束の場所』との落差がそこにある。

 ちなみに、外挿的な災厄であっても(エネルギー収支を無視して)元通りの世界にしない、不可逆な現象として世界をシミュレーションしていくことがSF的だ、という考え方もできる。
 『シン・ゴジラ』のゴジラを封印した後の東京において、特殊な半減期を設定しながらもゴジラの撒き散らした放射能汚染は「なかったこと」にならず、ゴジラの姿もモニュメントのように居座り続ける、といったことだ。

「元凶」のヒロインと「供物」のヒロイン

 そうした災厄に対する「犠牲となるヒロイン」の立ち位置だが、「ヒロインが災厄の原因であり、殺すことで解決となる」元凶パターンと、「ヒロインの犠牲のみが災厄を解決する力を持つ」供物(人柱)パターンに分かれると思う。
 前者はヒロイン自身が外挿的、後者は災厄が外挿的とも言えるだろうか。

あの「天気」は超常現象なのか自然現象なのか

 ここまでが「類型」の前提とすれば、『天気の子』の災厄はどうだったろう。
 超常現象なのか自然現象なのか? どっちとも取れそうだが、少なくとも「実在する(した)自然現象」ではないので娯楽作品としてあまり心配せず楽しめる、いい塩梅に設定された「気象」だった。
(心配して見てしまう、というのは例えば『崖の上のポニョ』の災厄が、ヒロインを元凶とした超常現象とは言え「津波」や「洪水」そのものだったことなど。大雨でゆるやかに冠水していく『天気の子』の場合、死傷者や行方不明者をあまり連想せずに見ることができる。)

 まずその塩梅が、アイディアとして優れていたと思う。

 『天気の子』の天気は、映像的にはファンタジックな魚や龍のようなものが描かれているし、被害が局地的すぎるのもおかしい(前作の隕石落下地点のおかしさに通じる)のだが、「地球スケールでは不自然じゃない」と作中で強調される現象にもなっている。
 場所を東京に限定しなければ、温暖化による水位上昇で「水没して住めなくなる町」は全世界で現在進行形の問題なのだ。

 ファンタジーというよりは『月刊ムー』的なオカルト要素で説明するのは『君の名は。』の世界観と地続きだが、『天気の子』では怪しい占い師の「ホメオスタシス」という言葉(いわゆるガイア理論を連想させる)もあったように、災厄による変化自体が「大局的に見れば自然に起こること」という扱いになっている。
 つまり外挿的なありえない変化ではなく、内在的にありうることの象徴的な表現にも見えるのだ。

 『君の名は。』では「東京の風景もいつ消えてしまうかわからない」という、本作を先取りしたような主人公の台詞も出てくるが、「いつか人が住めなくなるかもしれない」「風景が全く変わってしまうかもしれない」という恐れは現実にある。

 日本列島を例に考えるなら、「水位上昇」よりもむしろ「夏の気温」のほうが差し迫った災厄として予想されており、直下型大地震小惑星衝突といった巨大災害だけが「人を住めなくする」のではないとわかる。

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  • NMBとまなぶくん 2018年6月15日放送(#259) 知っておくと生活に役に立つ!天気予報の雑学SP」より


 2019年の夏ですら、まさに日本人の生活は「もう今までのように過ごせない」と実感できるレベルだし、2020年のオリンピックや甲子園、そしてコミックマーケットなど、「今までの常識が通用しないことを前提にした議論」が求められるほど変化は切迫している。

 現代の温暖化は人為的な温室効果によるところが大きいが、そもそも地球環境は数万年・数百万年のスケールで寒冷化と温暖化を繰り返すサイクルがある。
 その長いスケールのなかでは、現生人類は「たまたま過ごしやすい時期に繁栄しているだけの種」とも言えて、『天気の子』でいう「元々海を埋め立ていた土地が海に戻っただけ」という、大局的な自然観にも通じるだろう。

 『天気の子』の「天気」は確かに超常現象に見えるが、作中では「世界は元々こういうものなんだ」と繰り返し強調される。

 それを外挿的な災厄ではなく「内在的な災厄」と呼ぶとすれば、現実的に(少年少女の力だけで)解決することは難しく、外挿的な手段で解決しても釣り合いが取れない。

君の名は。』から『天気の子』で変化した構造

 すると『天気の子』で天秤にかけられるヒロインの立ち位置は、先述の分け方だと「ヒロイン自身が元凶」ではないし、「外挿的な災厄に対する供物」でもなくなってくる。

 ヒロインは自分の意志で「東京を救うために自分を供物とする」が、それでは外挿的な手段で現実を変える、新海誠が前作で受けた批判の内容と同じになってしまう。
 
 新海誠は『君の名は。』への批判を受け止め、ただ批判を躱すのではなく、あえてその先へ踏み込もうとしたと言うが、確かになるほどと思える構造の変化がある。
 そもそも『君の名は。』の隕石は外挿的なSF設定を持つゆえに超常現象で解決できたのであり(だから本来なら批判に当たらない、という解釈をここでは一貫させておきたい)、『天気の子』の天気は内在的ゆえに安易に解決できない。

 そこで主人公が「災厄の解決を選ばない」という選択をするのは、ファンタジーとSFの類型から考えても納得できるのだ。

 『君の名は。』は一見、「ヒロインも救うし災厄も解決する」の両方選ぶ王道パターン*3で、『天気の子』は「片方だけ選ぶ」だから結末が変化している、という違いではない。

 物語的に「変えてもいい災厄」「変えがたい災厄」の違いが生じている。
 そして『君の名は。』の主人公は「起こるはずの災厄に干渉して結果を変化させる」ことでヒロイン救出を導くが、『天気の子』の主人公は「ヒロインが結果を変化させたはずの災厄を変化前に戻す」という、過程の構造ごと逆転しているのだ。

 思考実験的に作られたストーリーとも言えるが、これが「見たことがないやつかも」という、最初の印象に繋がっているのだろう。

 また、「元々こんな世界だから自分のせいで変わったと思わなくていい」と考える大人に対し、主人公は「自分たちが変えた」と信じようとしていることが物語のキモになっており、作品解釈の幅を広げている。これも非常にバランス感覚がいい。

 もしもの話として、ヒロインが一度結果を変えなければそのまま雨が降り続けるだけで水没まではいかなかったのではないか、とも思えるが、それはあの怒り狂う天気を「擬人化」して見た話でもあるし、ヒロインが人柱から逃れようとするほど天候が悪化していたことからして水没は既定路線の結果だったようにも思える。

 ただ、「ヒロインが起こした変化を主人公が元に戻しただけ」ではなく「自分たちが変えた」という実感を残すことが、少年少女を描くエンタメとしてのカタルシスを両立させるポイントだったのだろう。

天気の子

天気の子

*1:日本のアニメとしては、『スーパーマン』よりは『パーマン』を例に挙げるべきだろうか。

*2:パーマンやアメコミヒーローにしても自然災害の救助や犯罪者の取り締まりで活躍することがあるが、どちらかというと「人のために働きすぎるヒーローの苦悩」に焦点が当たりやすいとも言える。

*3:もっとも「ヒロインだけ救う」と「ヒロインと村人も含めて救う」の二択であって、「ヒロインを選ぶのか村人を選ぶのか」という天秤の話ではなかったが。

「アニメ」と『バーチャルさんはみている』と『四月一日さん家の』

www.tv-tokyo.co.jp


 今回の記事は元々、VTuberドラマ四月一日さん家の』の情報発表前から考えていた話だったが、ちょうど問題にピッタリ合うニュースだったので一緒に考えてみたいと思う。
 例によって脱線しながら書くので、そこには文句を言わずに読んでほしい。


 さて、ドワンゴ製作のTVアニメ『バーチャルさんはみている』は、否応無しに「アニメとは何か?」という問いを視聴者に突きつける企画である。

virtualsan-looking.jp


 いや、言い方を変えよう。
 個人的には解答に迷うような問題ではないのだが、それはアニメーションの歴史とバーチャルYouTuberの歴史を照らし合わせて導き出せる答えでもある。
 だから、普通そのような照合を行わないような人からすると、ただただ「アニメ」概念についての混乱を誘うようなコンテンツになっている、と言ったほうが自然だろう。

直観的に行われる「アニメではない動画」への判断

 まず第一に、私たち日本人……そのなかでも「オタク」もしくは「アニメオタク」を自覚しているような人でも、「何がアニメなのか」という判断はかなり雰囲気で行っている。

 それは半年前に書いた「バーチャルYouTuberっぽさ」の中心と辺縁についてという記事での問題にも通じるだろう。

 象徴的な「◯◯っぽさ」の中心があり、その周囲に辺縁の広がりがあり、さらにそこから外れるものがある。そうした枠組みで捉えることが、とりあえず有効に働いている。
izumino.hatenablog.com


 つまり、私たちが「アニメ」という言葉を使う時、そこにはイメージとしての「中心」が無意識に設定されており、そこから外れていくごとに「っぽさ」が減少していくという捉え方をしているのだ。
 その「中心」を作っているのが、主に30分の枠で放送されるTVアニメ番組であり、映画館で上映される劇場アニメだろう。

 この2つは、アニメの内容以上にコンテンツの「枠」こそが重視されている。メディアの「形式」だけでなく、消費される「形態」こそが「アニメというイメージの中心」を成り立たせていると言っていいだろう。
 だからこの2つの周辺に、「形態は違っていても形式は同一に近い」という理由で、TVアニメのWeb配信や、(今では珍しい存在だが)OVA、自主制作のショートムービーなども「アニメ」として認識される。

 そこで意識される「メディアの形式」も限定的な「中心」があり、上記の作品群ではセル画制作が長く主流であり続けたため、今でもセルアニメ「セル画風のデジタル彩色アニメ」が「アニメ」と聞いて一番に思い浮かべるイメージとなっている。

 こうした「中心としてのアニメ観」には大体の同意を得られると考えるが、改めて視野を広げた時に他の使い方も一般的に存在している。
 例えば「人形アニメ」や「クレイアニメ」、そしてセル画ではない絵画を撮影したアーティスティックな作品もアニメと呼ぶことができる。

 大雑把に言って、現在「アニメ」は以下の三通りくらいの意味があると思っていいだろう。

  1. 上記の「中心的なアニメ」を指した言葉
  2. 「アニメーション」全般の略語
  3. 日本を海外から見た外来語としての「ANIME」

 3つ目の「ANIME」は「日本における中心的なアニメを指す」という意味で、1つ目と近いようだが、欧米などのアニメ作品を含まないことが多い。
 例えば、日本人からすると「ジブリアニメ(ジブリ映画)」と「ディズニーアニメ」は絵柄や作風が異なるだけで、形式・形態的に決定的な差があるとは考えないため「アニメ」と一括りにジャンル分けされやすい。

 こういう背景から「3DCGのデジタルアニメーション」が新たに生まれる。そこでピクサーやディズニーによる海外作品なども、形態的に従来のディズニー映画と同じように捉えられて「アニメ」と自然に呼ばれている。
 日本の3DCGは比較的、「セルルック」というセル画風の作画に似せた映像が多く、より「中心的なアニメ」に近寄せていることになる。

 そして日本語の「アニメ」はアニメーション全般の単なる略語でもあり、「アニメーション技術」が用いられていればアニメだろう、と安直に考えることもできる。
 CGアニメの技術は英語で「Computer animation」とも呼ばれるが、では3DCGを使ったビデオゲームは「アニメ」なのだろうか?

 おそらく、大作ビデオゲームのオープニングや幕間で再生される「ムービーシーン」は、セル画風でも3DCGでも、「アニメなのか」と聞かれると「アニメでいいんじゃないかな」と答えられるだろう。
 メディアの形態はTV番組でも映画でもないが、形式や技術はほぼ同じだからだ。

 それでは、3DCGで動くゲームのプレイ画面は「アニメ」だろうか? おそらく、多くの人が返答に詰まるか、否定するはずだ。
 ゲームのプレイ画面には、例えば体力ゲージなどのUIが表示されているからアニメっぽくない、と理屈を言えるかもしれない。しかしPS2ICOのように、操作中の画面にUIが表示されないゲームだって成立するのだ。


ICO プロモーションビデオ


【実況】 あなたのこの手は離さない part1 【ICO.HDver】


 このプレイ画面や、実況動画などを見て「アニメか?」というと「アニメっぽくない」と私たちは感じる。
 どうやら、プレイヤーが操作して介入できる作品は「ゲーム」であり「アニメ」ではないらしい。

 しかし、なぜアニメだと思わないのかの説明は難しい。言ってしまえば、3DCGのムービー制作も数値入力やモーションキャプチャー技術などを介して「3Dモデルを操作している」と言えるからだ。
 するとプレイ動画は「リアルタイムで操作している」から、ムービー制作と異なるのだろうか?

 逆に、3Dゲーム内の映像を編集することで別の映像作品を作り出す、マシニマ(Machinima)」と呼ばれるジャンルが海外にはある。
 日本で言うとゲーム作品のMAD動画に近いジャンルだが、マシニマはゲーム内のカメラアングル変更機能なども活用することで、「ゲーム内の操作」が「ムービー制作における操作」と近いものになる。
 そうして作られた映像は、一見して、普通の3DCGムービーと変わらないものになり、再び「アニメ」と呼ばれやすい作品に変わる。

 また、CGのモーションパターンそのものを「アニメーション」と呼ぶこともある。
 そのように、部分的な技術を指して「アニメ」と呼ぶことと、パッケージされたひとつの作品を「アニメ」と呼ぶことの両方があり、今は感覚的に使い分けられているようだ。

リアルタイムアニメーションとVTuber動画

 VTuberVRの技術は、元を辿ると3DCGゲームの開発技術と共に発達してきた面がある。
 特に「Unity」というゲームエンジンは、初期のVTuberの基幹技術としても注目されていた。

prtimes.jp


 キズナアイ(2016年デビュー)以前には、2014年に「ライブコミュニケーティングアニメーション」と呼ばれる技術が開発され、SHOWROOM配信が実施されていた。
 「特許出願中」だというこの技術がその後どうなったのかは調べがついていないのだが、アイディア的には今の3DタイプのVTuberとほとんど変わらない。
 しかし当時の関係者の発言を辿ると、これも「アニメ」の一形態として捉えていた様子がうかがえる。余談ながら、3Dモデルのキャラクターを「アニメキャラ」と呼ぶこと自体、「3Dなのにどこがアニメキャラなんだろう」という(セルアニメが中心の)価値観を揺さぶられてしまうのだが……。

 あの「WEATHEROID TypeA Airi」が3Dモデルで動くようになったのは2013年以降だが、2014年にはヤオヨロズ制作の『みならいディーバ(※生アニメ)』の生放送(配信)が始まる。こちらもライブコミュニケーティングアニメーションと似た技術で「アニメ番組」を制作している自覚があったのだろう。

 リアルタイムアニメーションとでも呼ぶべきこれらの技術の延長で、今の3DタイプVTuberは成立しているが、一般的に彼(彼女)らが動く映像は「アニメ」と呼ばれないようになっていく。
 そこには、「アニメーション技術ではなくVR技術」であり「番組ではなくYouTuber動画」だという点を強く押し出した「バーチャルYouTuberキズナアイ」の運動が大きく働いていたと思う。

 キズナアイの偉大な仕事のひとつはこの「一般的なジャンル認識の上書き」を行った点にある、と評価してもいいのだろう。
 だが、ユークスが開発する「AR Live System」で運用されているARP22/7も含め、その基幹技術をそれ以前のリアルタイムアニメーション技術と区別することは、単純なクォリティの差を探す以外には難しいだろう。

 『バーチャルさんがみている』以前に放送されたNHKバーチャルのど自慢」(システム的には同じVirtual Castが用いられている)が、テレビ欄ではアニメ「NHKバーチャルのど自慢」と表記されていたのもそうした単純な視点によるもの、と考えられる。

www6.nhk.or.jp


実質的な存在とアニメーションの原理

 もちろん「スーパーAI」であるキズナアイには、モーションキャプチャーやトラッキング技術について「存在しない」という概念的な違いはある。
 その逆に、電子上のプログラムだと自認する彼女に対して「身体的には3Dモデルのデータである」と言ってもメタっぽい話にはならない。
 プログラムに基づいて動く映像……、つまり「Computer animation」であるのはそのままの事実だからだ。

 一方で、「電子上の存在であること」をあまり自称しない、キズナアイ以降のVTuberたちはその身体の扱いが微妙になっていく。

ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber

ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber


 筆者がユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuberで寄稿した際にも述べたことだが、キズナアイより後に生まれたVTuberの多くは、VR技術におけるバーチャル」ではなく「実質的現実という意味でのバーチャル」をその名に冠する方向性が強まっている。

 つまり、VRではない)実質的な世界に存在する、実質的な個人、というニュアンスが新たなVTuber像を作っているのだ。

 そこで「アニメーション技術の原理」というものに立ち返ってみると、学術的には「仮現運動」という用語がしばしば登場する。

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 例えば、踏切の警報機や歩行者信号を見ると、本来「別々のもの」が点滅によって移動してるように感じる、という錯覚が起こる。
 そして「animation」という単語は、霊魂を意味するラテン語の「anima」が由来であり、「本来は動かないものに命を与えて動かす」ことをアニメーションと呼ぶ、という説明がなされる。
 仮現運動とは、その「動かないものを動かす」原理であり、「命がなく自分では動けないもの」や「コマごとには別々のもの」がその「動かないもの」に当てはまる。

 人形アニメのパペットは「瞬間瞬間は静止していて動かない」し、セルアニメのセル画は「コマごとに別々の絵」であって実際には同じ存在ではない
 だから無機物を撮影するにしても、モーターを搭載して自分で動けるようなら、それはアニメーションの撮影ではなく「特殊撮影」のようなものだと呼べるだろう。

 そう考えると、3DCGアニメというものは原理的にアニメーションなのか、という問いも生まれる。元々、「3DCGはアニメなのか」という議論は他の角度でも行われていたが*1、確かに3Dモデルは「動かすためのシステム」であり、コマごとに別物かというと「シーンを通して同一のデータ」なのだから

 ……というのはまぁ、言葉遊びに近い、詭弁になるだろう。
 ただし、『バーチャルさんはみている』におけるVTuberの収録については、こう考えることもできる。

 実質的な舞台空間で、実質的なカメラによって、実質的な演者を撮影している。

 つまり、やっていることはアニメーションの制作ではなく、実質的な実写撮影である。

「記録アニメーション」というものはない

 アニメから離れて、実写の歴史を遡ると、「記録映画」に辿り着く。
 古くは、現実の出来事を撮影してそのまま記録することが「映画」だった。


ラ・シオタ駅への列車の到着(L'arrivée d'un train en gare de La Ciotat)


 一度考えてみていただきたいが、実写に実録ドキュメンタリーとしての「記録映像」が存在していても、アニメで「記録アニメーション」は可能だろうか?
 ドキュメンタリーをアニメ映像にすることは可能だろうが、それは実写で言うなら「役者を雇った再現映像」に相当するのであって記録映像と同じではない。
 だから「実写」と「アニメ」の最大の違いとは、制作方法やその形式よりも、「アニメには記録映像がありえない」という点にあるように思う。

 映画にフィクションとしての物語が求められるようになると、やがて「舞台演劇をそのまま撮影する」という、今で言うライブの中継映像のような映画が生まれていく。
 さらにカメラアングルが採用され、舞台ではないスタジオ撮影、野外ロケが導入され、そしてカットの編集が行われ、特殊効果が追加されて今で言う「映画」に近付いていく。

 固定カメラで画面に向かって語りかけるVTuberのスタンダードなスタイルは、リアルのYouTuber動画を模したものでもある。だからVTuberの多くは、「TV的なカメラアングル」を経験していない者が多い
 対して、Virtual Castという舞台空間でアドリブを多用する『バーチャルさんはみている』の映像は、「記録映画」や「舞台をそのまま撮影した映画」が「映画」になりかける段階に近い、と言える。
 自由に振る舞うVTuberたちの動作が、うまくカメラに収まりきっていない場面がとても多いからだ。

 オムニバス番組である『バーチャルさんはみている』は、アドリブトークの強いコーナーと、台本色の強いコーナーのふたつに大きく分かれるが、特に「普段のYouTubeの動画と一番変わらない」と言われがちなのが「ゲーム部」のコーナー「VIRTUAL WARS」だろう。
 それでも、彼らの普段の動画と「VIRTUAL WARS」には演出上の違いが大きい。
 YouTube動画でのカット割りやカメラアングルは一般的なアニメの演出スタイルを意識しているが、「VIRTUAL WARS」は適宜に演者のバストアップが入る程度で、固定カメラによって全体を捉えた舞台演劇的な構図が基本になっている。

 それぞれの「演出家」の立場がどう違うのかはよくわからないが*2、『バーチャルさんはみている』の全体的な傾向として「舞台演劇的な演技」という特徴がある。
 カメラワーク自体はあるものの、映画的、テレビ的な構図にどの演者も最適化されておらず、おそらくカメラマンや演出家に相当するスタッフの「不慣れさ」にも起因した現象だと思う。

 それこそ「OA前カウントダウン・OA後アフタートーク」放送のように、Virtual Castの空間をリアルタイムで流すだけなら演者たちの動きも自然なのだが、「カッティングを中途半端にアニメに近付けよう」とした結果、演者の動作と不釣り合いな映像が出来上がっているようにも見える。

 そのためアドリブトークの強いコーナーも、台本色の強いコーナーも、「記録映画や舞台映画が今の映画に近付く中途段階のもの」を見せられている感覚がある。*3


番組枠としてのTVアニメとTVドラマ

 「NHKバーチャルのど自慢」が、特に深い意味もなく(主に技術的な理由で)「アニメ」と冠しただろう一方で、『バーチャルさんはみている』は明確に「TV番組の枠」を意識して「TVアニメ」を名乗っている。

 つまり最初のほうで述べた「アニメっぽさ」の中心としてTVアニメという名を借りているにすぎない。
 その方便を借りることで、クール単位の放送枠を取れるだけでなく、「深夜アニメ」を中心に鑑賞するアニメオタクの視野に入りやすく、OPとEDの主題歌をリリースし、そして既存のアニメシリーズと同じパッケージ商法に乗せることが容易になる。

ヒトガタ

ヒトガタ


 つまり、メディア展開上の戦略的な意味しかそこにはなく、形式的にアニメとして扱うかどうかは「この番組がアニメなら、のど自慢もアニメだったし、VTuberの動画は2Dも含めて全部アニメだ」以上に論じられるものはない。


 ……このように、筆者が友人とのディスカッションも交えて考えていたところ、突如として発表されたのがときのそら響木アオが主演のTVドラマ四月一日さん家の』だった。


バーチャルYouTuberドラマ【四月一日さん家の】新番組告知


 「VTuber主演のドラマ」というとなかなかインパクトのある企画だが、発表当初からファンの反応を見ていると、初主演おめでとうという声と、素直な期待の声が大きいと感じる。

 「VTuberのTVアニメ化」と発表され、出演者によって「アドリブが多い」と宣伝されていた『バーチャルさんはみている』と比べるなら、企画内容が鮮明に理解しやすいのだろう。
 一般にイメージされる「アニメ」の中心には、記録アニメーションの形式が存在しない(存在しえない)のだから、「VTuber」と「アニメ化」がうまく結びつかない。

 おそらくドワンゴ側は、出演者を「台本で縛る」ことへのファンの反発を恐れていた心理があったと想像するのだが、確かに「本人らの自由さを奪うのならVTuberである意味がない」と考える理由はわかるし、当時のファンの多くも似た思考をしていたと思う。

 ただ、実質的な舞台空間で、実質的なカメラによって、実質的な演者を撮影するという意味で、VTuberの演技は完全に「バーチャルな役者」そのものなのだ。

 そこに脚本を与えるなら、それはアニメではなく「バーチャルな実写ドラマ」でしかない。
 VTuberのメディア展開として非常に正しく、VTuberの存在について忠実な企画が『四月一日さん家の』なのだ。


【祝】テレビ東京ドラマ『四月一日さん家の』出演記念!ときのそら・響木アオ生放送【亀とカブトムシもいるよ】


 また、記念放送で制作の裏側を聞いてみると、「本当に実写のドラマと同じシステムの流れで制作している」とのことで、本格的な力の入れ込み方もうかがえる。

 VTuberはロケ撮影に向いておらず、「なるべく舞台美術(CG背景のモデル)を使いまわしたい」という事情は『バーチャルさんはみている』の各コーナーが舞台演劇的なことにも通じるが、こちらはシチュエーション・コメディシットコム)」の形式に近付けるアイディアによって舞台の狭さを解決している。

 演技面の問題も、例えば演技未経験のアイドルであってもアイドルなりの魅力を引き出すドラマの方法論というものはいくらでもある。
 そこはスタッフの実力次第だし、「見た目は10代のキャラクターが、劇中で20代の大人の女性を演じる」という二重構造自体が、「初主演のVTuberが背伸びして演じる」ことと重なって見守れるようで、その若々しさが面白い中和になるのではないかと思う。
 狙った配役だとしたら賢いな、と感心してしまった点だ。*4


 以上のように、「TVアニメ」という枠を戦略的に利用した『バーチャルさんはみている』と、「TVドラマ」という形式によってバーチャルな役者に忠実な『四月一日さん家の』は、それぞれ異なる軸で評価することができると思う。

*1:議論の仕方としては「劇場アニメを映画ランキングに含めていいのか」などに近い批評的な話になるが

*2:例えば「ユニティちゃんはコロがりたい」のコーナーは制作がドワンゴではないように、「VIRTUAL WARS」もどこまでゲーム部側で演出しているのかは不明だ

*3:さらに言えば、「YouTube動画の字幕」を再現しているのか「バラティ番組のテロップ」を意識しているのか微妙なテロップの使い方など、様々なメディアのコードが入り組んで混在しており、とにかく一貫性がないのは現代的でもある

*4:ちなみに記念放送では、「YouTuberとしての体の動かし方」から「TVドラマのカメラのための体の動かし方」へと自分を合わせる際の裏話も語られていた。YouTuber的な動作をそのままにしてカメラワークと適応させない、『バーチャルさんはみている』の現場とはそこも対照的に感じられる

VTuber界の「箱推し」概念について

izumino.hatenablog.com


 半月前の記事で、VTuberグループに対して言われる「箱推し」という用語について軽く触れたのだが、今でもこの言葉は当然のように使われ続けている。

 特に先日、「にじさんじ」の公式サービス「いつから.link」が公式の告知で使用していたのは少し驚かされた。


 このサイトは「フォローしたライバーの配信スケジュールを確認できる」というサービスを提供しているが、ここで言う「箱推し機能」とは、単に全ライバーのフォローボタンを一括で登録できる機能を指している。

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 しかしフォローした個人のことを「推しライバー」と呼ぶことも合わせて、「これで箱を推せる…」と告知の言葉が続くのは、運営側が「箱推し=全員の配信を見逃さない」という、ファンが一般的に用いているのと同じ意味で捉えている可能性を示している。

アイドル用語としての箱推し

 前回の記事でも書いたように、にじさんじファンが言う「箱推し」とは、元のアイドルヲタク*1用語からは歪んだ……というか、かなり限定的な意味で使われる傾向がある。

 元々は、メンバー個人を応援する「単推し」と対になる言葉だったという点から説明しないとわかりにくいだろう。

 この言葉が使われ始めた頃のアイドル業界では、「推しメン以外を推すこと」は「浮気」と捉えられて嫌われる空気があり、それでも複数のメンバーを応援したいファンが言い訳っぽく称するのが「箱推し」だったと思う。

 複数を推したい人は「ユニット推し」を称したり、または「1推し」の次に「2推し」「3推し」がいるという言い方もするのだが、その点で「箱推し」には「特別な推しはいません」という意思表示のニュアンスも含まれている。
 実質誰も推していない以上、浮気も成立しないという弁明が成り立つからだ。

 だから箱推しファンが推しているのは「グループというハコ」であり、厳密にはメンバーではない。
 「プロデューサー目線に近い」と説明されることもあり、アイドルのプロデューサーがメンバーを依怙贔屓してはいけないように、客観的にグループを支持しているニュアンスになる。むしろ、実際にプロデューサーの人や、劇場支配人や楽曲制作者などに注目する、「運営スタッフのファンである」と言ってもいいのだろう。

 歴史の浅いVTuber界では卒業や引退によってメンバーが世代交代するケースもまだないが、箱推しは「メンバーが入れ替わったとしても応援し続ける」というスタンスにも繋がりやすい。

 つまり「平等にグループ全体を推す」ということは「平等にメンバー全員を推さない」という意味でもある
 実は、このあたりリアルのアイドル業界でもニュアンスの混乱があり、「箱推しを自称しているのに全員を同時に推さないのか」という非難がたまに見られる。だが、「グループ(箱)」を応援するのならCDを買ったり劇場公演を見に行けば充分であって、全員のグッズを買い集めたり、全員の握手会に毎回並んだりする必要はない。

 握手会に行くにしても、「前の握手会ではAちゃんとBちゃんに並んだから、今回はDちゃんとFちゃんに並ぼう」「その次はCちゃんとEちゃんだな」というローテーションをしてもいいのだし、一回のイベントで全員に並ばなくても「応援」は可能だ。
 時間的・金銭的リソースとの兼ね合いで、「公平に推すということは公平に推さないということ」というスタンスを選択するのは自然な成り行きだろう。

 さらに前回の記事では「現場ヲタ」「在宅ヲタ」の違いについても触れたのだが、後者の「在宅ヲタ」は「追えないものは追わない」スタンスを明確に持っていると言える。
 特に劇場型のアイドルグループの場合、研究生公演など、ライブの現場でしか出会えないメンバーが大量に存在することになる。
 「現場」ではないアイドルの仕事は「メディア仕事」とも呼ばれ、シングルCDの選抜メンバーなどが優遇されて表に出てくるのだが、在宅ヲタは「メディア仕事がもらえるほど頭角を表してないメンバーはそもそも追わない」という見切りを付け、頭角を表す前のメンバーの応援や、「ポテンシャルの発見・発掘」は現場ヲタに任せる、という立場になる。

 また、各メンバーがブログやSNSのアカウントを持っている場合、それらを全てチェックするのも大変なので、直接見に行かずにまとめサイトにまとめられた情報だけをチェックする」というスタンスにも繋がりやすい。
 インターネットの情報なら「在宅」でも追うことは可能なのだが、「浮上してきた情報の上澄みだけを摂取して、発掘は他の人に任せる」という意味では、「現場と在宅」の対照に通じているだろう。

 ちなみに筆者は、足を運ぶ頻度こそ少ないものの「現場ヲタ」寄りの活動をしていた*2時期があり、その頃はメンバーのブログやSNSも可能なかぎり直接読むように頑張っていた。
 そういう自分からすると「まとめサイト経由でしかSNSは見ないですね」と同じグループのファンに言われると少々寂しい感情にもなっていたものだが、それは「うまく棲み分けできている」と考えてもよかったのだろう。

オタク業界への用語の輸入

 リアルアイドルの用語である「箱推し」が、なぜVTuber界で一般的に使われているのかというと不思議にも感じるが、まず第一には元アイドルファンや、現役でアイドルファンを兼任しているオタクが被って存在しているからだろう。

 次に、ラブライブ!のファン(ラブライバー)がVTuber界に流入しているのも大きい気がする。
 「声優+アイドル+キャラクター」の『ラブライブ!』自体が、アイドル業界と被っていたり被っていなかったりする微妙なファン層を形成しているが、そのため「リアルアイドル好きではないオタクがアイドル用語を学ぶ機会」を多く作っていたと思う。

 加えて、μ'sや Aqoursというグループ(=箱)に「メンバー交代」の概念がないことや、声優アイドルであるがゆえのファンとの距離感(握手会がないなど)、キャラクターや声優がそもそも「ファンの浮気に嫉妬する」という文化を持たずにみんなで仲良く活動していることから、声優アイドル界で言われる箱推しは「浮気への言い訳」という発祥のニュアンスをなくしていったのだろうと思われる。
(もちろん、リアルアイドルでも「握手会や総選挙による競争」が発生しないグループは多く、今のアイドル業界でも箱推しは平和的な意味で言われるようになっている傾向があると思う。)

 そうすると「プロデューサー的な視点での応援」という、メンバーから一歩引いたニュアンスも必要なくなり、素朴に「メンバー全員が推しメン」という意味での理解が広まりやすかったのだろう。
 (これがアイマスシリーズとかだと事情が異なるのだが)声優アイドルはメンバー数もそれほど多くならないので、この「全員が推しメン」という応援の仕方でもそう不都合は起きにくいとも言える。

 さて、問題のにじさんじも「公式ライバー1期生」は8名という少人数であり、2期生を足しても18名だった。この程度の規模なら「全員が推しメン」という意味での「箱推し」概念がそのまま伝わりやすかったのだろうが、ゲーマーズやSEEDsという派生グループが生まれてからは、一気に「箱推しができない」という意見が増えていく。

 しかしここまでの記事の内容を思い出してほしいのだが、「箱推し」は元から数十人を越えるアイドルグループに対しても用いられる言葉なのであって、その発祥を知る者からすると、首をかしげざるをえないのも理解していただけるはずだ。

 余談ながらもうひとつ、「よくある誤解」を解いておきたいのだが、AKB48などの「48」乃木坂46などの「46」「メンバー数をそのまま表す数字ではない」
 たまたま正規メンバーをその人数で揃えることはあっても、それは数字としてキリがいいからであって*3、数字より少なくても多くてもこだわりはしていない。

 例えばAKB48だと116名が所属しているし、逆にSTU4833名しか所属していない。
 乃木坂46は47名という近似値だが、欅坂46は27名であまりメンバーを増やさない方向性を取っているようだ。
 百名を上回るAKBに対し、65名が所属するにじさんじのライバーたちが「とうとうAKBを超えちゃったね」などと発言することも多いのだが、そういう時はコメントなどで指摘してあげてほしい。

 話を戻すと、アイドル業界について語ってきた通り、60人だろうと100人だろうと「箱推し」という応援の仕方は充分に成立する
 その事実がVTuber界でなかなか伝わりにくいのは、「箱推し」という用語だけは輸入したものの、「現場ヲタ/在宅ヲタ」のような「何を追って何を追わないのかにラインを引く概念」までは輸入できなかったので、「平等に推さないことで全体を応援する」というスタンスが掴みづらいという理由もあるのだろう。

 VTuber界の「箱推し」に対して、「もはや由来から意味が変化した別の言葉なのだ」と言って片付けてもいいかもしれないが、これ以上「不可能であることを前提にした用語」なんかが存在するのは単純に不毛だし、運営が「箱推し機能」を実装する一方、ライバーが「ムリして箱推しなんてしなくてもいいよ」と配信ごとに説得しなければいけない様子を見続けるのも気の毒だ。

 大きな弊害があるわけではないが、小さな齟齬がどんどん膨らみやすく、実益を感じられない誤用だと言ってもいいかもしれない。

 ちなみに指原莉乃の2年前の発言を借りるなら、当のAKBやその姉妹グループも「箱推し」を望んでいる姿勢が見て取れる。

「箱推しができるグループに」という意見に対し、指原は総選挙がない坂道シリーズについて「(総選挙がなく争わないから)みんな好き! ってできるじゃないですか」と言うと、「グループの感じが好きだったら、誰か推しメンが卒業しても2推しを応援できるじゃない。だってグループが好きなんだから。だけど今のAKBはそれができない」と指摘。小嶋や峯岸のように個人でも活動できるメンバーが増えた結果、AKB48というグループそのもののファンが減少傾向にあるようだ。

realsound.jp


 ここで言われる「箱推し」は、「推しメンと2推し」と併用されていることからもわかるように、「箱そのもの」と「個人」の応援は両立するものとして捉えられている点も興味深い。
 グループ全体を応援しながら、そのなかに「贔屓の推し」がいてもよい、と考えるのが現実的な「箱推し」の形であり、運営する側にとっても理想的だと捉えられている状況がうかがえる。

 この発言を「にじさんじプロジェクト」との比較で見るならば、「個人で活動できるメンバーが増えた結果、グループそのもののファンが減少する」という痛烈な指摘に思うところのある、にじさんじファンも多くいるのではないだろうか。

 現実としては、今のにじさんじに「個人で活動できるメンバー」はそれほど多くない。実際には「グループやユニットとしての総合力」を発揮しているライバーたちの努力が高く、「個人を推してくれればいい」という本人らの主張とは離れた状況にある、というのは前回の記事で触れた通りだ。

 「箱推しをせずに好きなメンバーを追ってくれればいい」という言葉はよく聞くものの、ライバーたちが深く考えずに言っているようでもあって、「箱推し」はしてもいいし歓迎すべきものだとも思う。

 ただし、「配信スケジュールサイトで全員の配信を見逃さない」ことを「箱推しができる」と呼ぶというのなら、それは絶対に意味が間違っているのだ。

アイドルヲタクに近付いている現実のVTuberファン

 ここまでを読んだなら、多くのにじさんじファンが「自分って普通に箱推ししてたんだな」と納得しているんじゃないかなとも思う。

  • この記事の作業中に目に入った今日の切り抜き動画


 特に2019年に入ってからは、シンプルな「切り抜き動画」の投稿頻度が増えてきた。
 ニコニコ動画に手の込んだMADや編集動画を投稿するよりも、Twitterに短い切り抜きを投稿するのは手軽に行えるファン活動になっている。それらを見ることで「今はどのライバーたちが面白いことをやっているのか」を後から知る、という楽しみ方は、在宅ヲタがまとめサイトを頼りにアイドルを発掘する方法によく似ている。

 TwitterではRTで回ってくることが多いのだろうが、例えば「ライバー全員を登録したリスト」を開いておけば、ライバー自身がRTする切り抜き動画が勝手に目に入ってくるはずだ。

 もちろん、生配信をリアルタイムで追わなければコメントには参加できないし、アーカイブが残らないリスクもあるのだが、リアルタイム参加は「現場ヲタ」がやるようなものだと思えばいい。

 「本当に外出するリアルイベント」がレアになるVTuberにとっては、「現場/在宅」という分け方に意味はないのだが、例えば「1推しがいる配信はなるべくリアルタイムで、他は切り抜きから辿る」というスタンスの「箱推し」がいたって全然構わない。

 むしろ、普通のファンは自然とその方向に流れていくはずであって、今更指摘するようなことでもない、とすら言えるだろう。
 そこで「箱推しはムリ(しなくていい)」「好きな個人だけ見ればいい」といった、よく聞く言葉のほうが不自然なだけだ、とも言える。

 マネタイズの面から言っても、公式アイテムを買って売上に貢献することは、生配信を見ていなくても可能だ。これもシングルCDや写真集などを買うアイドルヲタクが、劇場公演に通っているわけでもない(1回でも現場を体験していれば充分なくらいだとも言える)ことに通じる。

 前回の記事で、「考えをまとめるだけで結論は出さない」と最後に締めくくったのだが、現実的に考えられる結論はこのようなものだと思っている。

 残る問題は、この現状を運営、各ライバー、各ファンがそれぞれ認識し、次の手を正しく打てるか(ファンはそれを引き出し、対応できるか)なのだろう。

にじさんじ以外の話題のおまけ


 ちなみにだが、筆者がTwitterで「アイドル用語としての箱推し」についてざっくりと説明していたところ、「あにまーれ」所属の因幡はねるからリプライが届いたという驚きの一幕があった。

 彼女は、発祥に近い意味で「箱推し」を捉えているだけでなく、「異性との接触禁止を厳守する」「ファンの浮気を許さない」といったリアルアイドルの価値観を持って活動している、珍しいタイプのVTuberである。

 想定外の反応として興味深かったのは、彼女自身の感想ではなく(ものすごくキャラ通りの反応なので内容自体は驚くものではない)、このリプライを覗いた彼女のファンたちが、「元の意味を知らずに箱推しを使ってた」「なぜ彼女が箱推しに抵抗感を持っていたのかやっと理解した」というような動揺を示していたことにある。

 4人グループである「あにまーれ」は、ラブライバーのような意味での「全員を推す箱推し」が全然やりやすい「箱」なのだが、にじさんじとはまた別の混乱が起きており、由来を知ることでそれが解消に近付く、というのは予想外ではあったが嬉しい誤算だったかもしれない。


コンプティーク 2019年3月号

コンプティーク 2019年3月号

*1:前回も補足していたがアイドル業界では「ヲタク」表記が主なのでこう書く

*2:公演が主で握手券はほぼ買わない

*3:特に「48」は色んな数で割れるため、「16人×3チーム=48人」というキリのよい編成にはなりやすい

大規模VTuberグループとグループ内グループの認知のされ方について

 先日、統合後の「にじさんじプロジェクト」に関して、「無所属」扱いの新メンバー達をどう呼ぶか、という記事を書いた。

izumino.hatenablog.com

 今回はそこから少し踏み込んだ内容の記事にしたいと考えているのだが、先日の記事にしても単純に「名前がないと不便だから名前を付けよう」という話のつもりではなかった

 「言葉による呼び分け」というのは、ファンにとってその集団への愛着を表すことにも繋がる。今でも「SEEDs出身者」に特有の空気や芸風を感じることがあったり、「無印1期生」に初期メンバーとしての貫禄を感じたり、などだ。

 今後、単なる「にじさんじプロジェクト」という大きなくくりだけではその愛着も表せないし、個性を発揮していくだろう新メンバー達が「ただの無所属」としか扱われないのは寂しいもので、ある種の集り(ユニット)としての力が伝えにくくなるようにも思う。


 65人を超え、これからも増え続けていくだろう巨大グループに対し、一人一人を個人認識していくのはかなり困難なはずだ。
 そのためにユニットや「グループ内グループ」というのは有効に働いていたのだが、統合発表後に「にじさんじレジスタンス」の2人が後輩を心配する相談をしていたのが思い出される。
 それ自体は「杞憂せずに楽観的に考えよう」くらいの結論に終わっていたのだが、主に

  • グループ内で直接の先輩・後輩関係がなくなるので誰を頼るのか(誰が世話を焼くのか)がわかりにくい
  • グループの枠がなく、全員が公平なスタートになる代わりに完全な実力主義個人主義)になる

……のふたつが懸念されていたと思う。蓋を開けてみると、今はどういう状態になっているのだろうか。

運営の理想とファンの消費行動のズレ

 この記事で書くことは、複雑になってきたグループの状況を自分で確認しなおすのが目的でもある。だから「これが正しい」という結論を示したいわけではない。
 とはいえ、自分も「頭のなかでまとまらなくなってきたな」と思うから書くことであって、他の人にも考える参考にはなるのではないかと思う。

 例えば、ライバー達に直接送り付けられるクレーム……というか「お悩み」として、「全員追い切れなくて睡眠時間が足りない」だとか「配信時間を被らせるな」「長時間配信するな」というファンの心情が存在する。

 自分が見ている範囲では、これらに対して「こっちは全員追ってくれとも言ってないし、全部見ろとも言ってない」という率直な返しになりやすく、それ自体は当然のアンサーだと思うのだが、「じゃあどんな見方をしたらいいのか」の解釈は様々だ。

 複数のライバーから聞くのは、「どうもいちから(※にじさんじの運営会社)はグループ全体ではなく、好みに合ったライバー個人を追ってくれればいいと思っているフシがある」という運営方針の存在である。
 その事実関係は確かめようがないものの、いちからを「芸能事務所」として見ればこれも当然のロジックではある。
 大人数のタレントを所属させるメリットと言えば「多様性のある需要をカバーできるようになること」であって、同じ方向性のタレントを集めて全員を好きになってもらうことではない。

 ただし事実として、にじさんじのファンは元々「無印一二期生」や「ゲーマーズ」「SEEDs」といったグループ内グループの関係性や総合力を愛するファンが多く、にじさんじといえばグループ全体で生まれる魅力を楽しむこと」という観念を強く持ち続けているように感じる。


【にじさんじ】Mr.Music【歌ってみた!】


【SEEDs】Connecting【歌ってみた】


【にじさんじ】Bad ∞ End ∞ Night 歌ってみた【#お屋敷組】

 そこで運営思想と消費行動のズレが生じていると思われるのだが、グループを愛するファンの間でも「プロジェクト全体を把握しきること」は不可能だと充分理解できている。
 だからこそ、大きく断片化された「グループ内グループ」の存在が強く認識されていたのだが、いきなり「個人を好きになってくれればいい」と言われても首肯しにくいのだと言えるだろう。

 これは余談だが、にじさんじ界隈でしばしば使われる用語に「箱推し」というものがあって、これはリアルの「グループアイドル」業界の用語が元*1になっている。
 本来は「メンバー個人を特別に応援するよりもグループ全体を応援している」という博愛的なニュアンスにすぎない言葉だ。だが、配信数が多いにじさんじ界隈では「全員を応援する」の意味がなぜか「全員の動画を全部追う」の意味に拡大解釈されやすく、その極端な「箱推し」思想が先ほどの「お悩み」にも繋がっている。

 アイドルヲタク*2の世界では元々、「現場ヲタ」(劇場公演やツアー、握手会などの現場に足を運ぶヲタク)と「在宅ヲタ」(テレビ番組や雑誌、CDやDVD、SNSなど自宅で消費可能なメディアで楽しむヲタク)の棲み分けが大雑把にあって、その両立は難しいことがわかりきっている。
 しかしVTuberのオタクにはまだ「何を主に見て、何に見切りをつければいいのか」という基準が文化として成り立っていない、という問題になってくるのだろう。

 結果として、「本心では全てを追いたいのだがそれはできない」というフラストレーションが溜まりやすく、同時に「何を基準にして見れば最も効率的にグループを楽しめるのか」という問いに答えが用意されていない状況が続いているのかもしれない。

ユニット売りの難しさ

 例えば、(今はアーカイブのない配信の発言だが)「運営としては箱推しよりも個人推しを大事にしたいのかな」というイメージを語っていた一人が新メンバーの郡道美玲であって、そこにライバーデビューの難しさを感じていたことがうかがえる。

www.youtube.com

 特に、SEEDs2期生は各ライバーが散発的にデビューしていたこともあり、運営側によるプッシュが足りなかったとファンの間でも囁かれることが多い。
 そこはさすがに運営も反面教師としていたのか、2019年の1月デビュー組は2名/2名/3名に10日ずつ分けてそれぞれリレー方式に配信させるなど、ファンに認知されやすい工夫がされていた。

 数字で比べるのも酷な話なのだが、この1月組は確かにSEEDs出身者よりもチャンネル登録者数の初動が良く、最後尾の3人組を除いた4人はすでに3万人を突破する快挙を見せている。SEEDs1期生出身の卯月コウが先月3万人を突破したばかりと言えばラインがわかりやすいだろうか。

 そのデビュー前の郡道美玲の心境は色々と想像させられるものがあって、シークレット枠だった同期の夢月ロアと積極的にセットで売り出そうとする姿勢は1月組のなかでも特異に映る。

 にじさんじ運営が(仮に)考えているような「個人推し」の方針で行くなら、夢月ロアはいかにも配信トークに慣れておらず、もし単独で売り出すならば少し頼りない印象も最初はあったからだ。
 結果としてこの2人はニコイチの印象を強く与えながらお互いの魅力を認知させただけでなく、郡道先生は「コラボ◯ッチ」「なんか絡みにくい」などと呼ばれつつもSEEDs出身の男性陣と自然に絡むようになり、「個人推しさせるためのデビュー」からいち早く脱しているようにも映る。

 しかし、他の1月組のデビューを心配するような言い方をしながらも、彼女が一緒に引き上げられたのは夢月ロア1人が限界だった、とも考えられるかもしれない。それ以上は新人ライバー1人ができる領域を超えていると言えるだろうか。

 「そのために公式のMIX UP!!がある」というファンのコメントもあったのだが、彼女は「地理的にMIX UPに出られないメンバーもいる」と自分を例に挙げて反論もしている。

 かといってユニット売りだけが正解かというと「後から仲が破綻すると気まずくなるだろ」という懸念も某ライバー2人がしていたし、難しいことには変わりないのだろう。

数字による評価の定まらなさ

 また、VTuber界のある種の定説として「登録者数を伸ばすならコラボが一番」というような、コラボ企画に対する特別視がたまに見受けられる。

 これは「個人配信よりもコラボ企画のほうが面白くなる」というファンの体感にも基づいていると思われるし、実際にコラボ配信はYouTubeの同時視聴者数が伸びやすい傾向もあると思う。

 ただし登録者数をランキングで見比べてみると、その体感に反して「個人配信を着実に続けているメンバー」ほど登録者数の上位に登っているようにも見える。

 上から見れば、個人でのゲーム実況配信に強い静凛は、リアルライブでファンを動員させた樋口楓よりも上位であるし、5~6位の物述有栖鈴鹿詩子は特にコラボが少ないメンバーだった。
 SEEDs1期生トップのシスター・クレア、2期生トップの竜胆尊にしてもコラボが少ないか全くない状態でそのポジションを得ていたのだ。

 つまりデータとして見るなら、「コラボはあくまで切っ掛けで、ユーザーがチャンネル登録ボタンを押すかはその個人配信の量と質にかかっている」という現実があるようにも映る。
 「OTN組」や「にじさんじレジタンス」のホストとして認知される花畑チャイカの躍進は目立つものの、OTNの立役者であるはずの名伽尾アズマが「個人配信も頑張らなきゃ」と時折考えるのも、この構造を見越してのものだろう。

 また、こういうデータを見た上で運営は「個人推し」を重視しているのかもしれないが、現在はチャンネル登録者数が「ライバーの成果」として一律に評価され、各種のご褒美が発生するシステムにもなっている。

 一定評価を与えられるシステムに疑問を抱くのもキリがないのだが、メンバーの実力を評価する基準が少ないのは寂しいものだ。
(例えば、「キズナアイ『のとく番』」で行われたVTuberランキング企画の放送後には、登録者数ランキングと順位がそれほど一致しない点についての考察がいくらか見られた。)


izumino.hatenablog.com

 また、以前のこの記事でも語ったように、「グループであることの総合力」を最も発揮できた集団として「にじさんじSEEDs」が存在していたと考えている。
 そこで悪く言うつもりはまったくないし、それぞれ個人配信の企画などもちゃんと面白いのだが、先述の名伽尾アズマやその同期の八朔ゆずはかつて「自分は指示待ち人間だから」と語ったこともあるように、個人配信者である以上に、まさしく「タレント」として呼び出され、適切な役を与えられることで実力や魅力が発揮されるメンバーだと思っている。
 他にも動画編集・音響などの技術力に秀でたメンバーなど、裏方として活躍するメンバーも無視はできない。

 それはたぶん多くのファンに知られている才能だと思うし、しかしそれが客観的なデータに繋がりにくいのはやはりもどかしいものだ。

 一方、無印一二期生は「コラボ以前にそれぞれが大きな山でなければ」という姿勢が(特に一期生に)強く、先駆者としてある種の理想を体現していると思う。
 その理想も間違ってはいないと思うのだが、個々人が注目されづらい後輩たちに同じ活動を求めるのも難しいだろう。

 議論がやや広がりすぎてしまったが、今の問題は「箱推し」というにじさんじ界隈で独り歩きしている概念(全員を応援する=全視聴が不可能という無理難題)と、「個人推し」という理想(ファンの応援の実態に即しておらず、個人の実力が客観的に評価されづらい環境)が、両極端に離れすぎてその中間がない、という状態から生まれていると考えてもいいだろう。

 その中間とは何か? というと各ライバーも運営も考えつづけていることなのかもしれないが、まず我々ユーザーの側からも、「箱推し」と「個人推し」の両極端で悩まされるだけではなく、積極的にグループ内の総合力、グループ内グループ(ユニット)の総合力に魅力があることをアピールし続ける意義があるのではないだろうか。

 現に、元SEEDsと元ゲーマーズの混合カルテット「ド葛本社」が非常に高い人気を確立していたりもするのだが、おそらく偶発的な、奇跡的なヒットだとみなされているところもあると思う。

 できればこうしたヒットが生まれやすく、そして各ライバーが客観的に評価されやすい世界になればいいと感じるのだが、今は拙速に結論を求めるのではなく、たぶんこういう現状なのだろうな、という認識に留めて筆を止めておきたい。

にじさんじカレンダー 2019-2020

にじさんじカレンダー 2019-2020

*1:さらに言えばAKB48などの「劇場型グループアイドル」の用語で、「劇場=ハコ」から来ていると思われる

*2:なぜかドルヲタ界では「ヲタク」表記が主なのでこう書く

統合後のにじさんじメンバーのデビュー順呼び分けを考えるブログ

 2019年からグループ統合が行われた「にじさんじプロジェクト」は、現在65名を数えるバーチャルライバー達をおおまかに区別したり、呼び分ける呼称に不足していると言える。

 公式的に推奨されていそうなのは、元いたグループ名に「出身」を付けて「にじさんじ1期生出身メンバー」「SEEDs2期生出身の誰々」などと呼ぶことだが、それでは統合後に増えていくだろう新規メンバー達に対応しきれない。

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 「にじさんじ非公式Wiki」では「統合以降」という括りでまとめられているのだが、それも愛嬌のなさすぎる呼称だし、いずれ歴史を重ねていけば呼び分けとしての意味が破綻していくだろう。

 「言葉による呼び分け」というのは、ファンにとってその集団への愛着を表すことにも繋がる。今でも「SEEDs出身者」に特有の空気や芸風を感じることがあったり、「無印1期生」に初期メンバーとしての貫禄を感じたり、などだ。

 今後、単なる「にじさんじプロジェクト」という大きなくくりだけではその愛着も表せないし、個性を発揮していくだろう新メンバー達が「ただの無所属」としか扱われないのは寂しいもので、ある種の集り(ユニット)としての力が伝えにくくなるようにも思う。

「19年1月デビュー組」(7名)

 ところでその統合後の新メンバー達は、現在ちょうど全員が「2019年1月」Twitterデビュー/初配信の時期が収まっている。

  • 童田明治:2019年1月10日 YouTube初配信
  • 久遠千歳:同上
  • 郡道美玲:2019年1月20日 YouTube初配信
  • 夢月ロア:同上
  • 小野町春香:2019年1月30日 YouTube初配信
  • 語部紡:同上
  • 瀬戸美夜子:同上

 同日デビューのメンバーが多く、初配信もリレー方式で行われたこともあって、例えば今「新人の3人組」と言えば小野町、語部、瀬戸の3名のことを指しているのだと理解しやすい。

 だからこの7名を「19年1月デビュー組」と呼び分けられることに注目して、既存のライバー達もデビュー時期で区別すればわかりやすいことを考えてみたい。
 「出身」という言葉も少し歯切れのよくないフレーズだし、切り口としては悪くないのではないだろうか。

「18年2~5月デビュー組」(20名)

 言わずもがな、2018年1~2月にデビューした無印1期生(8名)と、同年3月デビューの無印2期生(10名)たちはにじさんじ一二期生」と呼んで区別しやすいまとまりがすでに出来ている。

 これに5月デビューの「にじさんじゲーマーズ」初期メンバー、「叶」と「赤羽葉子」を加えると、「18年2~5月デビュー組」と呼んで分けることができるし、「SEEDsという大人数グループが生まれる前のにじさんじ」をこの20名のイメージで記憶している人も多いと思う。

「18年6~9月デビュー組」(現38名)

 そして翌6月にはSEEDs1期生と「VOIZ」(現在は解体済)が、7月から9月にかけてゲーマーズの追加メンバーとSEEDsの2期生たちが次々とデビューを始め、人数が一気に倍増する大所帯になっていくのだが、こちらを「18年6~9月デビュー組」と呼ぶことができる。

 卒業した者や、今年になって卒業から復帰した者なども含むためメンバー数を数えるのは若干ややこしいのだが*1、実際にSEEDsとゲーマーズ追加メンバーの出身者はコラボも活発なため、こちらもある種のまとまとりとして全員をイメージしやすいのではないだろうか。


 以上は、あくまで提案であるのだが、個人的には今後にじさんじの歴史を振り返ろうとした時などに利用できればいいと考えている。

コンプティーク 2019年2月号

コンプティーク 2019年2月号

コンプティーク 2019年3月号

コンプティーク 2019年3月号

*1:追記:特に6月にデビューした元VOIZのメンバーは4名中、2名は6月中に脱退し、残り2名は「SEEDs2期生」として8~9月に再デビューしている。

【にじさんじSEEDs】2速に入る八朔ゆずが生まれるまで

 唐突だが、にじさんじSEEDsのモノマネ芸で一番好きなのが「2速に入る八朔ゆず」だったりする。
 「身内ネタがネタとして昇華されていく過程」としても、SEEDsらしさの典型が表れた感じがして好きなので、個人的に振り返っていた流れをまとめてみたい(他にもうやってる人がいたり抜けがあると単に恥ずかしいやつ)。

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