【VT】リアルガチ料理動画の歴史を追う

※投稿後の17時間後に「宗谷いちか」と「周防パトラ」について加筆

 リアルガチ料理動画とは何だろう? それは「バーチャルYouTuberがリアルでガチに料理する動画」のことだ。
 普通に考えればそもそも「料理」はリアルに行うものであり、そこへあえて「リアル」と付け足すことにバーチャル感が表されている。


 そこで今回は、このリアルガチ料理動画の歴史を自分が知るかぎりに振り返って時系列順に追ってみたいと思う。*1
 いずれも「早い者勝ち、やったもん勝ち」という発想の勝利の世界であり、互いに影響関係があろうとなかろうと一日でも早く公開できた人たちは自慢してかまわないはずだ。

 「VTuberがリアルに料理するってなんだよ」と思う人もいるかもしれないが、それぞれに「これがバーチャルYouTuberなんだよなあ……」という感じを得られればいいのだと思う。

2018/01/25 ヨメミのハイポーション作り


【バーチャル初】ハイポーションを作ってみた結果が…


 まず取り上げるのは料理動画ではなく「飲料」を作る動画なのだが、参考資料として紹介すべきだと思う。
 「ヨメミ」バーチャルYouTuberであると同時に、「リアル動画投稿者と同じことをする動画」を好むYouTuberでもある。
 元々ハイポーションを作る動画は10年以上前から「ニコニコ動画」に存在し、そのマネをする動画も多かった。

 ヨメミのハイポーション動画は、VTuberの動画に実写映像を合成させる点でも早い時期のものであり*2、「あたかもVTuberがリアルに手作業をしている」ように見える点で画期的だったと言えるだろう。
 とはいえ、実際は動画内でも説明されている通り、「ARアプリでもあるヨメミが現実側の人間(ダーリンと呼ばれる動画視聴者)を操って動かしている」という設定になっており、VTuberはリアルではなくデジタルな存在である、という世界観は維持されている。

 なお、ヨメミのモデルが3D化した直後(2018年8月12日)に投稿された動画も「ドライアイス爆弾を作る」という動画であり、いかにもリアルYouTuberと同じことをしたいというこだわりが窺える。


【実験】ドライアイス爆弾でエイレーンさん爆発…!!【検証】


 3Dモデルになっても「ヨメミが現実側の人間を操っている」という世界観は相変わらずなのだが、撮影技術的には実写の「目線カメラ」感が強調されているところを注目すべきだろう(これは後で紹介する動画の伏線)。

2018/02/14 ぽんぽこの甲賀流CGチョコ作り


ぽんぽこ直伝!チョコレシピを伝授するの巻!【バーチャルYouTuber】


 続いては、皆さんご存知であろう、甲賀流忍者ぽんぽこ」による甲賀流CG動画である。
 そもそもぽんぽこは、2018年2月から2Dモデルと組み合わせた実写映像を「甲賀流CG」と称し、実はリアルの映像ではなくバーチャルYouTuberと同じデジタルな世界だ、ということにして「実写でもバーチャルなのだ」と言える世界観を初めて正当化できたVTuberだった。

 その延長でチョコ作りやソーセージ作りなどの動画があり、「POCO'sキッチン」というシリーズも生まれているが、リアルな「料理」ではなくあくまで「CGモデリング」の動画ということになっている。
 いずれもぽんぽこ本人と思しき手が映り込んでいるのだが、第三者目線のカメラや、固定カメラによる撮影になっている点を一応覚えておこう。

2018/05/1 大谷さんの食べ物文化研究

 さらにVTuberの概念を揺るがすVTuberとしても知られているのが「大谷さん」である。


ごはんを作る食文化研究系VTuber『大谷さん』です


 ぽんぽこ以上に、「リアルに料理している人」が露骨に映り込むスタイルなのだが、ここでも第三者目線のカメラや固定カメラの撮影になる点を覚えておこう。

2018/07/07 丸山あかねの目線カメラ魚捌き

abema.tv


 実は今回このエントリは、まだ知らない人にもこれを紹介したくて書いていたりする。
 「22/7計算中」は「デジタル声優アイドル」と称されたアイドルグループ「22/7」の冠番組で、丸山あかねというメンバーが「目線カメラの撮影による魚捌きのロケ」を第1回放送で見せているのだ(AbemaTV内で無料視聴可能)。

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  • この後で刺身を実食もしている

 と、言うとそれはVTuberなのか? と思われるかもしれないが、同じメンバーである藤間桜が6月14日にVTuberデビューしており、しばらく後に河野都」「佐藤麗華」「戸田ジュンという他のメンバーも同様にチャンネル開設している。
 「22/7計算中」に出演するメンバーたちもYouTubeの動画と変わらない動きをするキャラクター(モーションキャプチャーによるフルボディトラッキング)となっており、一種の「YouTube外でVTuberの延長上にある活動を行うバーチャルタレント」を体現していると言えるだろう。
 番組のカテゴリがなぜか「アニメ」になっているのはツッコミどころなのだが……。

 そこで丸山あかねのロケ動画の話に戻ると、TV局のバラエティ番組と同じ作り方をしているだけあって、タレントの頭部に「目線カメラ」を被せて撮影する、という手法を採れた点にこれまでのVTuberにはない特色があった。
 「目線カメラ付きヘルメット」やヘッドバンドというと、あまり個人で所有するものではないが、TVでロケ番組を制作するならお馴染みの備品でもある。
 この備品を簡単に用意できたことによって、ここまでの料理動画と違って「キャラクター本人の目線で料理する映像」(映り込む腕は声優のものなのだが)が実現している。

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 また、第1回の終わりの次回予告でも見られるように、第2回では「藤間桜の目線カメラ食品サンプル作り」も放送されていた。本物の料理ではないが、料理っぽく映る動画として見所がある。

2018/07/22 モイラのリアルガチお料理


 ようやくこのエントリのタイトルにも繋がるが、にじさんじ公式ライバー「モイラ」による初の料理生配信である。
 にじさんじの公式ライバーは元々、生配信中に紅茶をいれたりアイスを食べたりなど、「画面に映らない飲食」をしてきたのだが、その行為を料理にまで広げたのは彼女が初めてだったと思われる。

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 配信中はTシャツにジーンズ姿のモイラ様がいつも通りに表示される(背景はキッチン風)だけであり、料理の様子は音から判断できるのみ。
 料理完成後に写真をTwitterにアップする、というスタイルだった。

 ほぼASMRに近いスタイルなのだが、これが「もちがえる」コラボのカレー作りに繋がり、他のにじさんじメンバーもリアルガチ料理配信を堂々と行うようになっている。


もちがえるコラボ!カレーつくるよ!


鈴鹿詩子 お料理配信#1 ロールキャベツを作るも、うたっこたちにいちいち音が怖いと恐怖される


『015』花畑チャイコとカルボナーラ


【闇夜乃モルル】旦那さま...ご飯にする?お風呂にする?それとも...🍜ψ`( ・-・× )´↝


 ライバーの様子を映像として伝えようとするだけでなく、視聴者に「想像」させることでより実質的(バーチャル)な実在感を高めてきたにじさんじらしい配信スタイルである。

 グループ外でも同様のスタイルによる料理配信が見られるようになったが、今のところ暫定でモイラ様が最初、ということにしたい。

2018/08/11 パコの目線カメラ蕎麦打ち

 最後に紹介するのは、バーチャルアルパカ美少女Vtuber「パコ」である。
 なんと、どんな機材を使用しているのかは不明だが、目線カメラによる生配信の撮影で蕎麦を打っている。


パコの生放送 #22 「蕎麦打ちしながらキズナアイ杯を応援!」


 なぜキズナアイ杯の応援で蕎麦なのかはよくわからないものの、個人(?)のVTuberで目線カメラを用いた料理配信の例はこれが初めて見たものだった。
 スペースの狭そうな調理場を映しており、「ちょっと後ろを振り向くだけで思いっ切り自室が映ってしまうのでは」というスリリングさもあって目が離せない動画になっている。


 ちなみにこの配信が行われた翌日に、ヨメミの「ドライアイス爆弾」動画が投稿されているのは奇妙な偶然だったと思う。
 リアル料理にかぎらず、「VTuberによる目線カメラ撮影」は今後可能性のある手法であるかもしれない。
 まさに「22/7計算中」でのロケ撮影がその面白さを追求しているのだが、彼女たちは声優たちがリアルの声優としても活動しているからこそロケをやりやすい、という面は確かにあるかもしれない。*3

 我々のいるリアル世界に現出するのが難しい多くのVTuberにしてみれば、自室やスタジオでの目線カメラ撮影が実現性としては高いと考えられ、そこで行える活動のひとつとして今は「料理」が選ばれているのだと言えるだろうか。

2018/09/01  宗谷いちかの知育菓子クッキング ※加筆部分


【実写練習枠】宗谷いちかの知育菓子クッキング~!!!!【宗谷いちか / あにまーれ】

2018/09/19 周防パトラのたこ焼き ※加筆部分


【2万人ありがとう企画】たこ焼き焼いてお祝いするぶいちゅっば!【周防パトラ / ハニスト】


 「宗谷いちか」「周防パトラ」の配信はセットで紹介したい。

 「有閑喫茶 あにまーれ」の宗谷いちかが「実写練習」と称して行っているのは、知育菓子「たのしいケーキやさん」の体験配信で、特徴としてはクロマキー(的な何かの技術)で作業台と指を白く飛ばすという手法が試されている。
 基本的には指がカメラに映り込まないようにハサミで掴んだりもしているのだが、白い指の輪郭が時々見えることがある。
 練習枠なだけあって映像の画質は粗く、本人が言うように「バーチャル世界から次元を超えてがんばって撮影したらこうなる」というニュアンスの映像になっていると思えばいいだろうか。

 この18日後に配信した周防パトラは、「あにまーれ」の公式ライバルグループ「HoneyStrap」所属のメンバーで、こちらは比較的鮮明な映像でたこ焼きを焼いている。
 やはりクロマキー的な何かによって、調理する手の部分を透過させているのだが、白く飛ばすのではなく透明にする、というのは結果的に見やすい映像になっていると思う。

 生身の手をそのまま映すぽんぽこや、手袋を着けるヨメミ(のダーリン)とはまた別の方向性が探られているようだ。
 こうしたワンアイディアから展開していく流れこそが、「最初に思い付いてやった人が偉い」と言うべき世界であろうと思う。

*1:当然筆者が知らないものがあれば後で付け足すので教えていただきたい。ただ、先行するVTuberとスタイルの変わらないケースだと知っていても入れない場合もある。

*2:ちなみにこれより以前だと岩本町芸能社のAR動画が2017年に確認できる。

*3:単にスマホカメラを手に持って、POV風にロケ撮影する日雇礼子のようなケースもあるが。

なぜ女性Vtuberは同性が好きなのか

 新書タイトルのような題になってしまったが、結論から先に書くとVtuberが好きな人がVtuberになるから」という理由が考えられる。

 と、言っても細かいニュアンスがまったく伝わらないので、遠回りしながら本題に入っていきたい。

可視化されにくい女性オタクの生態

 マーケティング的に、アニメファンとVtuberファンは親和性が高いと分析されることがあるが、中でも「声優ラジオ」のリスナーという経歴を持つVtuberファンは多いのではないだろうか。

 自分はというと、90年代から女性声優がパーソナリティとなるラジオをよく聴いていた(一番古い記憶は1991年の『魔神英雄伝ワタル3』で、当時小学高学年である)。
 子ども心にだが、なんとなく「世間ではあまり知ることのできない女性像」というものがそこにはある予感がしていて、思春期を経るにつれ、単に好きというだけでなく、特殊な好奇心を抱くようにもなっていた。

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「バーチャルYouTuberっぽさ」の中心と辺縁について

 自分がバーチャルYoutuber(Vtuber)をフォローするようになったのは2017年の年末に輝夜を見てからで、翌年の1月頃にときのそらを知り、3月に入る頃には月ノ美兎をファンアートで知ってやや遅れ気味ににじさんじ中心に追いかけるようになったという流れだったと思う。

 今では時間が許すかぎり、外出時を除けばほぼ毎日色々な動画を再生している。そこそこヘビーなユーザーと化していると思うが、漫画やアニメ、趣味のゲームやTV番組録画なども以前と変わらず楽しめているので幸いに(?)Vtuber一色の生活になったという感覚は薄い。

 

 それでも、「未来の文化」になりつつあるVtuberの世界に大きな魅力を感じているのは確かで、大小を問わずVtuberについてのことを考えない日はない。

 これまた幸いなことに、物書きとしてこの世界に関わることもできるようだ。媒体はまだ伏せておくものの、本当にありがたい話だと思う。

 

 しばしば見掛ける問題提起のひとつに、「いつまでVtuberという総称が有効なのか」という問いがある。

 今でこそYouTubeという動画投稿・配信サイトが拠点となっているが、VtuberはMirrativOPENRECでも活動できるし、すでに芸能人の参入が多いSHOWROOMの配信者には「SHOWROOMER」という呼称がある。

 ニコニコ生放送Cluster.などの場合は活動の拠点というより、特殊なイベントの際に利用されがちではあるが、それにしても「ユーチューバー」という括りが継続的に通用しうるのか、という不安はある。

 「Vtuber」はもう一般名詞みたいなものだからYouTubeと無縁になっても使い続ければいいじゃないか、と割り切ってもいいかもだが、YouTubeも企業なのだから商標的なカドが立たないわけではない。

(もっとも、ファミコンの記事が載らなくなった『ファミコン通信』が『ファミ通』と誌名を変えて存続しているようなケースもあるわけだが。)

 

 そうした「将来的なゆらぎ」を抱えた文化がバーチャルYouTuberであるのだが、この5ヶ月ほどの間、増大しつづけるVtuberたちを眺めてきて面白いと思うのは「何がバーチャルYouTuberと認識されるのか」という基準の曖昧さだ。

 いわゆる定義論をするつもりはない。

 むしろ定義のない状態で、ある一定のバーチャルYouTuberっぽさ」という概念が共有されていること自体が面白いのだと思う。

 

 つまり活動拠点がYouTubeにあるかどうかといった「条件」によって決まるというより、「っぽい」という感覚の集積によってVtuberはVtuberとして判断される。

 「言語化はできないが直観で判断できる」という状態は、Vtuberにかぎらず、新しく現れたジャンルや集団の認識においてよく起こることだと思う。

 

 そこで、これから定義論に手を出そうと考える人達のためにも、この曖昧な「っぽさ」の捉え方について考えてみたいと思う。

 

どこまでがバーチャルYouTuberだと認識されるのか?

  この問題を考える上で「面白いな」と感じていたのは、筆者の専門領域である「漫画」 の問題と重なる部分も見つかるからだ。

 

 漫画論・漫画学の世界には、「漫画と呼べるのか曖昧なもの」を、どこまで漫画として扱ってよいのか?という問いに向かい合ってきた歴史がある。

 その議論を紹介した、前回のエントリから引用してみよう。

 

 漫画もまた、読者の多くが「漫画らしさ」というイメージを曖昧に共有しつつも、歴史的にはそのイメージが必ずしも通用しないケースに多く直面する文化なのだ。

〔略〕

 これは現実的に、アーカイブとして「世界中の漫画を収集しよう」と公的機関などが試みようとした時にぶちあたる問題であって、「漫画」と「漫画でないもの」の線引きが困難である以上、「手当たり次第にすべて収集する」という方法を取らざるをえないようだ。

 ただし、本当に手当たり次第では「漫画とは何か」を学術的に考えることはできない。

 この難問に対応するために、夏目房之介が(講演の場などで)提唱していたのが「中心と辺縁」という枠組みで捉えることである。

 あくまで便宜的な枠組みであるが、まずは誰もが「漫画」と認識するような「中心」を仮に設定する。例えば、日本で最も発行部数の多い漫画誌である『週刊少年ジャンプ』やそのコミックスはほぼ確実に漫画だと呼べるだろう。ここではアメコミやBDなど、文化ごとに「中心」を設定し直してもかまわないと思われる。

 そしてその中心を囲むようにして、周辺に「漫画のようなもの」が位置し、さらにそこからも遠ざかると「漫画ではないもの」として扱えばよいという考え方だ。

〔略〕

 完全に「漫画」と「漫画ではないもの」を一気に定義するのではなく、中間に「辺縁」を挟むことで便宜的に対応しようとするこの発想は、漫画以外のジャンルにおいても応用できる「定義論争への処方」であると思う。

超能力漫画の変遷/スタンド概念の中心と辺縁について - izumino’s diary

 

  現在、「手当たり次第」という方法論に近いのは「バーチャルYouTuberランキング」というサイトにおけるバーチャルYouTuberの登録基準だろう。

 「YouTubeのチャンネルとTwitterのアカウントを所有していること」という単純な規定(Twitterは任意)だけがあり、その条件さえ満たせば一応は登録できる仕組みになっている。

  しかし当然、「これは本当にVtuberなのか?」というアカウントでも登録できることになる。将来的には「YouTubeTwitterとは無関係に活動するVtuber(的な配信者)」を含めることができない、という問題も発生しうるだろう。

 

「中心」となるキズナアイ 

 そこで、バーチャルYouTuberについても「中心と辺縁」のモデルを当てはめて考えてみたいと思う。

 「中心」として位置付けできるのは、やはり日本で初めて「バーチャルYouTuberを名乗った」とされる、Vtuber界の親分ことキズナアイなのだろう。

 

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   2017年末以降のバーチャルYuTuberブームというのは、このキズナアイバーチャルYouTuberっぽさ」の中心として追いかけてきた歴史だとも言える。

 彼女のできること・できないことがバーチャルYouTuberそのものの特徴として認識されやすくもなる。

 その肩書き通りに「YouTuberっぽい動画を撮ってYouTubeにアップするバーチャルのキャラクター」であり、つまり「Vtuberっぽさ」以前には、「YouTuberっぽさ」が当然意識されていたと言える。

 

 映像の技術的には全身をトラッキングして動く3Dモデルを持つが、指先や、口以外の表情を自動で再現することは不得手とする。

 バーチャル空間上の「椅子に座る」という動作の再現も技術的に難しいようで、基本は立ちっぱであり、椅子に座っている前提(ゲームプレイ中など)ならば上半身のみが画面に映されていることが多い。

 また、どうも3Dモデルが「縦軸の移動」を認識しないらしく、ジャンプができない、といった特徴も存在する。

 

(03:00頃から)


体力測定をやってみる!

 

 彼女をバーチャルYouTuberの基準にすることで、まず発生するのがキズナアイ以前のバーチャルYouTuberっぽいキャラクター探し」である。この時点ですでに対象がYouTuberではない

 

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  デビューそのものはキズナアイより何年も早いが、専門チャンネルTwitterアカウントを長らく持たなかった(出演番組のYouTubeチャンネルはあった)、WEATHEROID TypeA Airiがその代表となる。

 チャンネル登録順で言えば新人Vtuberなのに、キズナアイからは先輩格のような扱いも受けている、元祖の元祖のような存在だ。

 3Dモデルの技術的には現在より見劣りする部分もあるが、「リアルタイムの会話」と「読み上げ音声」の使い分けが可能という、逆に今では珍しい特徴*1も持つ。

 

 技術的な特徴を基準とすることで、同じタイプのキャラクターとして電脳少女YouTuberシロミライアカリ、そして輝夜ときのそらバーチャルYouTuberの仲間として認知されていくこととなる。

 

 さて、前回のエントリでは「ジョジョ」シリーズのスタンドを「中心と辺縁」のサンプルに用いていたわけだが、例えばザ・ワールドとかクレイジー・ダイヤモンドのような近距離パワー型スタンドを「スタンド」のイメージの中心になりうると挙げていた。

 喩えるなら、そうした近距離パワー型スタンドと近い位置付けにできるのが彼女たちのようなタイプかもしれない(余談)。

 

 そして様々なキャラクター(とその演者)の登場によって、バーチャルYouTuberの概念は拡張されていくことになる。

 第一に衝撃を与えたのは、バーチャルのじゃロリ狐娘Youtuberおじさんことねこます氏だろうか。

 

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  キズナアイ、シロ、ミライアカリと並んでバーチャルYouTuber四天王と称された有名配信者の一人である。*2

 彼or彼女は少女のモデルを用いながらボイスチェンジャーも使わず男性であることを隠さない、という衝撃的な特徴があったわけだが、今振り返るとそもそもVtuberとしての出自が異なっていたとも言える。

 企業をバックに持たずに全て自前で用意している点も当時は異色に映ったが、それだけではない。

 何よりもYouTubeでの活動だけが主目的ではないような、VRChatなどのVRネットワークサービスを促進させている技術者……という側面を個人的には強く感じる。

 

 Vtuberとは、基本的に演者の名前をキャラクター(アバター)から切り離そうとするものだが、VRネットワークの世界にそうした大前提はない。

 まず現実のネットユーザーがいて、VRネットワークにおいてアバターを用いるだけ……、という意味ではねこます氏の在り方はむしろ一般のユーザーにとって模範的だとも言えるのだ。その社会的役割(?)からすると、YouTubeでの活動は「手段」にすぎないようにも映る。

 つまりねこます氏の存在は、技術的な差異や動画の内容だけではなく、その「目的」によってもVtuberの概念は変わることを示唆している。

 

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  ねこます氏との交流も持つノラネコ氏によるのらきゃっとは、両者の中間のような存在だとも思われる。

 音声認識と音声読み上げの組み合わせで会話する仕様はキャラクター(女性)と演者(男性)を基本的には切り離そうとしているが、こちらもVRネットワークにおけるアバターの「お手本」として働いている側面が強いのではないだろうか。

 

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  現実のユーザーの存在をあまり隠していない、という意味では、やはりねこます氏との交流がある万楽えねも、VRネットワークに寄ったVtuberでもある。

 ただ、ねこます氏やのらきゃっとに比べるなら、VRネットワークにおける彼女をあまり知らないままVtuberの一人として認識してる人も多いかもしれない。

 

バーチャルYouTuberの辺縁

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 また、バーチャルYouTuberブーム初期には、コウノスケ氏制作の源元気(げんげん)がバーチャルYouTuberとして「見なされていた」。

 モデルの質感は3DCGっぽいが、Live2Dによる2D画像のキャラクターであり、声は合成音声。

 つまりキズナアイらのトラッキング技術からは掛け離れた「アニメーション動画」と言ってしまってよいのだが、不思議とこれがバーチャルYouTuberを名乗って受け入れられる、という現象が発生していた。

 まさに「バーチャルYouTuberっぽさ」の「っぽさ」の部分によって、見る者の認識が操られた結果だったかもしれない。

 ちなみに、源元気は「キャラクター自身」のTwitterアカウントを所有していない。さらに「本人」のYouTuberチャンネルは4ヶ月前から停止中で、新作動画はコウノスケ氏のチャンネルでアップロードされるよう方針変更されている。

 そちらにしても、最新の投稿は2ヶ月前にもなるのだが、先ほど「アニメーション動画」と述べた通り、YouTuber動画というよりも、ほとんど「映像作品」へと移行しているようにも映る。

 

 と、言うのもバーチャルYouTuberのブーム以降、かねてからときのそら、ミライアカリが行っていたように、1時間以上にも及ぶライブ生配信がその活動において目立つようになる。

 

(1時間に達した生放送)


【17/09/28放送】ときのそらVR生放送アーカイブ【#004】

 

 つまり、短めの企画動画の撮影が「リアルのYouTuberっぽい活動」のように元々は見なされていたはずだ。しかしライブ中の「雑談」や「ユーザーコメントとの対話」を行えることが「バーチャルYouTuberっぽさ」の要素に含まれていく。

 これは台本ありきで話すタイプには当然不可能なことであるし、演者によるアドリブ性の高さこそが、動画内のキャラクターと「Twitterアカウントによる発言」を紐付けることを強化している。

 

 キズナアイライブ配信は30分前後や1時間未満に収まる傾向があったが、「長時間のライブ生配信が可能であること」という要素が「中心」に再設定されていったと考えてもいいだろう。

 また、コラボ企画によって「他のVtuberと同時に会話できること」がVtuberの可能性として注目されやすくもなった。

 

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 この現在の観点からすると、源元気はかなりVtuberの「辺縁」に位置している。

 Vtuberの概念が未成熟な時期だからこそ受け入れられたスタイルではあったが、今からするとどうだろう?

 ところで「どこまでがVtuberなのか」という話をしていると「(客観的に定義できないのだから)本人が名乗った時点でそれがVtuberなのではないか」という達観じみた意見が現れがちでもある。

 しかし、ユーザーの立場からだけではなく、制作者の立場からも「Vtuberを名乗ることをためらう」ケースがあるようだ。

 例えば、『ニー子はつらいよ』という漫画のヒロイン「ニー子」がVtuberデビューした、という設定の動画が存在する。

webで人気爆発中の漫画「ニー子はつらいよ」のコミックス1巻の発売を記念して特別動画を公開!
作者書き下ろしのシナリオでおくるボイスドラマをお楽しみください!

CV:金元寿子

動画制作協力:ファイブスターズゲーム株式会社


ニートがVチューバーデビューしてみた

  声優が公開されているのみならず、「作者書き下ろしのシナリオ」などと明言しているのも面白いが、はっきり「ボイスドラマ」と言い切ってしまっているあたり、自覚的に「Vtuberをデビューさせているつもりがない」ようで味わい深い。

 

 そもそもを言えば、漫画の劇中キャラクターがそのキャラデザのまま(つまり「素顔」で)撮影しているということは、「それはVtuberではなく単なるYouTuberなのでは?」というツッコミ待ちの作品にも見える。

 単にネタとして制作されているから、という前提知識があるにしても、果たして私たちはこのキャラクターの姿から「Vtuberらしさ」を認識できるものだろうか? もし多くの人ができないのだとしたら、それがバーチャルYouTuber「辺縁よりもさらに外側」を示しているとも言えるだろう。

 

 そしてある意味、源元気やニー子に近いタイプとして鳩羽つぐの存在がある。

 

www.youtube.com

 これまでの文脈からすれば、鳩羽つぐは明らかに「映像作品」寄りの動画投稿を続けている。

 Twitterアカウントも存在しているため、「バーチャルYouTuberランキング」の登録条件も満たし、現時点で国内ランキング10位*3という記録を見せているが、そのTwitterも動画の投稿にしか用いられていないのだ。

 

 そして動画内容の見方によっては、源元気以上に「映像作品」としての傾向が強い。

 だが、特筆すべきなのは多くの人が「バーチャルYouTuberらしさ」を彼女に感じ取っている事実だろう。

 よくある解釈では、鳩羽つぐは私たちの現実から切り離された別の世界に存在していて、なかば監禁状態にあるという想像が巡らされている。つぐ自身が自発的にTwitterで投稿しないのも、それで一応説明がつく。

 つまり、一連の映像作品のなかでは、つぐ自身がアドリブで行動できるようなキャラクターに見えなかったとしても、「そこにいるかもしれない実在感の高さ」でもって、あたかもVtuberのように認知されていると言えるだろう。

 「単なる3Dアニメであって、このキャラは実在していない」と思わせるのではなく、「別の世界に実在する少女の動画を見ているのかもしれない」と想像させているのが鳩羽つぐだ。

 源元気の時点とはまた異なるアプローチで、私たちの抱く「バーチャルYouTuberっぽさ」を刺激していると言えよう。

 

 とは言え、私見ではそこまで考えた上でも「鳩羽つぐをバーチャルYouTuberって呼ぶのはどうかな」と疑う気持ちがそれなりにある。「うまく錯覚させているな」、というレベルに感じてしまうのだ。

 そんな錯覚を誘う行為自体が「作品(アート)」になっているのではないか、とも思う。

 ただ、(世界観はぶち壊されてしまうが)鳩羽つぐはいつだって「はいどーもー」などと言いつつ突然「普通のVtuber」になっても構わないキャラクターでもある。おそらく技術的には、手付けのアニメーションではなくトラッキングにも対応できる3Dモデルを用いているはずだろうから。

 まぁ99.9%そんな展開にはならんだろうと思いつつ、そうした潜在的な可能性も含めて「バーチャルYouTuberっぽさ」が担保されているとは言えるかもしれない。

 

 もうひとつ「辺縁」に位置しそうなVtuberも紹介しよう。

 そろそろ「虚無のことかな?」と期待する人も多そうだがそちらはあえて無視して、登場していただくのは「天才バーチャルYouTuberピアニスト」を自称する彩音である。

 

www.youtube.com


【バーチャルYoutuber】彩音よ。初めまして。【自己紹介】

 

 動画を見ていただけるとわかると思うのだが、これがかなり微妙な存在なのだ。

 まず、喋らない。音声読み上げもせずに自己紹介は字幕だけで、音源はピアノの演奏のみ。

 そもそも、指先の動きが映らない(先述したが3Dモデルの指先をリアルに動かすのは技術的に困難なのだ)映像に「ピアノの音源を乗せている」だけなのだが、こういう動画の作り方なら「誰の音源を使っても同じなのでは?」と疑うこともできる。

 ピアノの素人の感想ではあるが、そこまで個性的な演奏スタイルというわけでもないし、「彩音」というバーチャルなキャラクターがピアノを弾く意味自体をあまり感じない、と言ってもいいと思う。

 とはいえ初動画の投稿が2018年の4月1日であり、Twitterと共に16日間だけ活動したっきりの存在なのだ。

 おそらくネタ(お遊び)として作られたVtuberだと思われるのだが、これがかえって「Vtuberっぽいが、Vtuberになりきれないもの」とはこういう微妙なラインにあるのかもしれない、と考える切っ掛けを与えてくれている気もする。

 要するに、バーチャルYouTuberっぽさが量的に足りていないのかもしれない、と言えるのだ。

 

Live2D+顔認識技術という新たな「中心」

 時系列としては前後した解説になってしまうが、「キズナアイ」に象徴されるVtuber概念の「中心」は、常に更新され拡張されつづけている。

 当初、Vtuberを始めるには初期投資のコストが高くつくものだと論じられていたが、Live2Dモデルと顔認識*4システムを組み合わせるアイディアによって初期ハードルが大幅に低く引き下げられた。FaceRigにじさんじアプリによるVtuber参入増加である。

 これらもまた、「バーチャルYouTuberっぽさ」のスキマをついたことによる概念の拡張だった。

 Oculusなどを利用した3Dモデルのトラッキングの場合、口元(リップシンク)以外の表情の再現が不得手なのだと先に触れたが、顔認識に特化したソフトならばかなり細かな表情(瞳の揺れや眉なども含む)まで自動で再現することができる。

 そこでは、Vtuberの本質というものが「会話」に見出されていることが窺える。VR空間内で動き回ったりポーズを取ることよりも、表情によって感情を伝え、演者が話しつづける雑談の内容によって「Vtuberらしさ」が作り上げられる。

 

  さらにローコストになってくると、簡素なリップシンクや目パチだけの一枚絵でもVtuberと認識されうるようになる。そちらが「バーチャルYuTuberっぽさ」の基準としているのはもはやキズナアイではなく、Live2DタイプのVtuberなのだと言えるだろう(歴史的にも、2DのYouTuberの出自はキズナアイより古く遡ることができる)。

www.youtube.com

 

 究極的には、キャラクターデザインさえあれば、画面内にその顔が映っていなくても「Vtuberが喋っている」ようにきっちり認識されることだってあるのだ(画面からVtuberの姿がしばらく映らないまま進行する動画は実際に多い)。

 

 さらに言えば、モデルの形状よりも「演者による会話」にこそ本質が見出されるというのは、モデルはアップデート可能である、という事実によっても支えられているのかもしれない。

 

live.nicovideo.jp

 月ノ美兎の3Dモデル化(通称「Ver.2」)がその最たる例であるが、取替不能である演者に対し、そのモデルはコスト次第で3Dへと乗り換えられること……それでもファンは「月ノ美兎」なのだと充分に認識することが示されたのだ。

 月ノ美兎の所属するにじさんじの公式メンバーらには、将来的にそうした道が開かれているとも言えて、むしろ2Dと3Dの長所短所をそれぞれ使い分けられる汎用性もある。

nijisanji.ichikara.co.jp

 

 ただし、「2Dでも喋っていればVtuber」かというと、そうは問屋が卸さない。

 まさか「ゆっくり実況動画」や「ゆっくり解説動画」の投稿者がバーチャルYouTuberだと思う人はいないだろうし、どうやら「キャラクターデザインがオリジナルのものであること」が大きな判断基準になっているようだ。

 


身バレしました。引退します。【07】

(※キャラクターはゆっくり魔理沙だが、動画上では魔理沙と呼ばれず*5、動画制作者のアバターのようにキャラクターが用いられている例。だが誰が見てもVtuberとは感じないだろうと思われる。)

 

 ちなみに「ゆっくり音声」かどうかはむしろ重要ではないようで、初投稿からしばらくゆっくり音声を用いていた日雇礼子はしっかりとVtuber認識されている。


【自己紹介】バーチャルその日暮らしお姉さんの日雇礼子です♪

 

 動画の内容的に、ゆっくりでも同様のことはできそうに思えるのだが、オリジナルモデルでなければ「キャラクターとして立たない」、というシンプルな力が働いてそうではある。日雇礼子のモデルデザインはかなりシンプルなのだが、それでもVtuberにとって固有のモデルは必要不可欠な存在のようだ。

 

まとめ

 それでは最後に、筆者でなければ使えないネタでオチを付けて終わらせようと思う。

 実は筆者は、強制的にバーチャルYouTuberにされたという普通はあまりしないだろう経験を持っている。

 Web上で「私たちの気付かない漫画のこと」という漫画論の連載を終わらせた際、イラスト(図解)担当だった漫画家の西島大介さんが、最終回記念の動画をYouTubeにアップしてくださった時の話である。

(私信ですがその節は大変お世話になりました。またお仕事ご一緒しましょう。)

 


私たちが気付かないバーチャルーチューバーのこと

 そこでは西島さんとぼくがバーチャルユーチューバー(原文ママ)になってしまったことになっており、西島さんの声がキャラに付けられているのだが、まさかこれがVtuberなのだと思う人はおるまい、と断言しても許されると思われる。

 すでに述べたことの繰り返しになるが、バーチャルYouTuberは定義がないからと言って、「名乗るだけでなれる」ものではないことを、この様子からも感じ取っていただきたい。

 

 象徴的な「◯◯っぽさ」の中心があり、その周囲に辺縁の広がりがあり、さらにそこから外れるものがある。そうした枠組みで捉えることが、とりあえず有効に働いている。

 やがては「Vtuber」に代わる呼称が必要とされる時が来るかもしれない。そうした状況においても、「中心と辺縁」によってゆるやかに概念を捉え直していければいいのだと思う。

コンプティーク 2018年6月号

コンプティーク 2018年6月号

 

 

余談

*1:似たようなシステムで思い当たるのは、(かなり性質は異なるが)日雇礼子くらいだろうか。

*2:輝夜月の登場後はキズナアイが殿堂入りのように扱われ、残り4名が新四天王へと再編されるが。

*3:ランキング上は11位なのだが、チャンネルを複数持つキズナアイが一人で1~2位を独占しているため、キャラクター順ではひとつ繰り上がる。

*4:正確には異なるシステムなのだが「顔認証」と呼ばれることも時々ある。

*5:他の投稿動画では魔理沙と呼ばれていることもある。

超能力漫画の変遷/スタンド概念の中心と辺縁について

超能力からスタンドへ

 『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズを代表作とする荒木飛呂彦が、漫画界に不可逆な変化をもたらした巨大な作家であることはもはや論をまたないところであろう。

 その成果は数多く挙げることができるが、特に少年漫画やバトル漫画の領域においては、「スタンド」の発明の与えた影響の大きさが素朴に認められることだと思う。

 「スタンド」概念の画期性は、何よりもそれ以前の「超能力」漫画との比較によって明らかになるものだ。

 

 荒木自身は、明確に「スタンド」のアイディアが大友克洋の「超能力」描写から生じていることを繰り返し語っている。 

 

「スタンド」とか「波紋」の発想の原点にあるのは、いわゆる「超能力」というものに対する疑問からなんです。その存在自体は半信半疑なんだけど「念じるだけで物が動く」ってのが、なんか卑怯な感じがするんですよ。〔略〕裏づけというか説得力というか、そういうものが欲しかったんです。「ムッ」と念じるだけで物がバーンと割れるんじゃなくて、他人には見えないんだけど実際に何かが出てきて、そいつが物を割ってくれる、みたいな。

JOJO6251―荒木飛呂彦の世界 (愛蔵版コミックス)

JOJO6251―荒木飛呂彦の世界 (愛蔵版コミックス)

 

『JoJo6251[荒木飛呂彦の世界]』p166

 

つまり超能力というのはただ念じたらバーンって割れる感じを、まぁ、何か出てきて叩けば読者はわかりやすいなと。ただそれだけなんですけれど。〔略〕

大友克洋の『童夢』における超能力描写への対抗意識があったか尋ねられて〕そうですね。超能力のわかりにくさをなんとかしてやろうというのはありましたね。でも大友先生の空間の描き方にはすごい勉強させていただきましたよ。コップの割れ方とかね。よく見て描いていくとちゃんとわかるんですよ、理論的に描いていて。ちゃんとこう、パズルみたいに破片をきっちり描くんですよね。 

ユリイカ1997年4月号 特集=J-コミック'97

ユリイカ1997年4月号 特集=J-コミック'97

 

ユリイカ』1997年4月号収録荒木飛呂彦インタビュー(p137)

 

〔「スタンド」について〕精神力の象徴ですね。それまでは、ガラスを「ううーん」とか念じて動かして、「バーン!」と割ったりするのが超能力だったんですけど、その「動かして割るところ」を絵にできないかなと思って。それが発想の原点というか。

大阪芸術大学大学漫画 (Vol.4)

大阪芸術大学大学漫画 (Vol.4)

 

『大学漫画』Vol.4収録荒木飛呂彦インタビュー(p203)

 

 この「見えない超能力のプロセスを描きたい」という欲求の源泉は、実は「超能力漫画」以前まで遡ることができる。

 荒木は白土三平の『ワタリ』が最初に模写を始めた作品のひとつだと言い(『JoJo6251[荒木飛呂彦の世界]』p168)、そして「忍者の術を理論的に描いてる」ことを好きな点として挙げている(『Quick Japan』Vol.75、p93)。

白土三平選集 13 ワタリ 1 (白土三平選集 新装版 13)

白土三平選集 13 ワタリ 1 (白土三平選集 新装版 13)

 

  その白土が「忍者漫画」というジャンルで行ったことは、荒木が「超能力漫画」に対して行ったことと重なるのだ。 

 夏目房之介は、白土が当時の漫画界に与えた衝撃を以下のように語っている。

 魔法と夢想とお笑いの世界だった忍術マンガをガラリと変えてしまったのが白土三平*1だった。〔略〕

 忍術を「現実らしく」するキイワード。それこそ“忍法”であり“忍者”だったわけだ。印をむすんでドロロンと化ける忍術は、白土三平によって体術と種あかしのある忍法にかえられた。これは、僕などにも相当ショックな世界だった。

夏目房之介夏目房之介の漫画学―マンガでマンガを読む』ちくま文庫版p48

 それまでの忍者漫画というのは(そもそも「忍者」という呼び方が定着したのも白土三平の時代以降だったようだが)、「印を結びながら口に巻物を咥えてドロン」という演出に代表されるように、「妖術」や「神通力」と変わらない描き方をされるものだったという。

 だが、白土三平の登場した時代の日本は「科学精神」が強調された頃でもあり、神秘的な「忍術」は、理論的な解説の加わる「忍法」へと変化する。

 例えば『ワタリ』では、「土遁」の忍法を「印を結んでドロン」の術ではなく、科学的な説明と図解を加えてもっともらしく読者に伝えようとする。

 荒木作品において、この「科学的な図解」の直接的な影響が見られるのは、バオー来訪者における武装現象の図解だろう。

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荒木飛呂彦バオー来訪者』2巻p7

  荒木の「超能力」描写に対する欲求は、こうした科学的図解の延長上にあり、『バオー』の武装現象と、スタンドのあいだには、ジョジョ第二部までの「波紋」描写が挟まることになる。  

 大友(克洋)先生の漫画で、登場人物が超能力でバーンっとものを破壊するじゃないですか。力の始まりからバーンという結果までの間に、もうちょっと絵がほしかったんですよ。エネルギーの描写がほしい。描きたいんですよそこが。それが、波紋なんです。

クイック・ジャパン75 (Vol.75)

クイック・ジャパン75 (Vol.75)

 

Quick Japan』Vol.75収録荒木飛呂彦インタビュー(p93)

 「波紋」のアイディアは、目に見えない超能力のエネルギーを「波」のように捉えて視覚化したことに眼目がある。

 本来、科学的に考えてみれば「超能力」もなんらかの粒子や、波によって物理的に作用している可能性がある。物理的に作用している以上、そのプロセスを描くことができるはずだという発想が「スタンド」以前の「波紋」描写からは垣間見える。

 

 ところで、ここでも言及される「大友克洋の超能力描写」だが、実は白土の「忍者漫画」と大友の「超能力者漫画」は、横山光輝によって結び付けられるジャンルでもある。

 荒木飛呂彦にとっての横山光輝は、白土三平大友克洋以上にその影響の強さやリスペクトが語られる漫画家であるが、横山自身が白土の次の世代の忍者漫画(『伊賀の影丸』など)を描き、そして『バビル2世』という超能力者漫画を作り出した。

 少年漫画というジャンル全体から見れば、横山も「合理的な」バトルを描く漫画家であり、それこそが荒木の好む作家性でもある。しかし白土の科学的説明に比べれば、横山の描く忍法は理論的におおらかで「そういう忍法だから」と納得させている部分が多い(例えば「どこにそんな忍法の道具を大量に持ち歩いているのか」など)。

 さらに、しばしば指摘されることだが『バビル2世』は「忍者漫画の忍法を超能力に置き換えた漫画」とも言われる。つまり忍法バトルを描く方法論が、現代の超能力バトルにも応用できることを示したのだ。

(これは「番長漫画」や「ボクシング漫画」の方法論の延長で、『聖闘士星矢』を描けることを示した車田正美にも通じることかもしれない。) 

バビル2世 1 (少年チャンピオン・コミックス)

バビル2世 1 (少年チャンピオン・コミックス)

 

  横山によっておおらかになった忍法描写は、超能力漫画に変わることで、まさに「ううーんとか念じて」行われるものに変化したと言えるだろう。

 ただし『バビル2世』の超能力は、全身から炎を発生させるパイロキネシスや、電撃のようなエネルギーで攻撃するエネルギー衝撃波など、漫画的に視覚化されたものも多い。だからこそ、横山のさらに後から「まったく目に見えない超能力」を描いた大友が新しい作家として注目されたのでもある。

 つまり荒木は、横山のような衝撃波でもなく、大友のような不可視の力でもない姿で超能力のプロセスを表現できないかと模索していたのだ。 

 

 このように、荒木飛呂彦のスタンドが生まれるまでには、白土三平横山光輝大友克洋という3人の作家の影響が働いていたと言える。

 

スタンド概念の中心と辺縁

 いま現在においても「スタンド」が能力バトル漫画の金字塔のように映るのは、単に最初の発明だったからだけでなく、「超能力の視覚化」というテーマと地続きだった点にあると思う。

 現代の能力バトルは、まず「スタンドのような能力バトルものの能力」という発想からスタートすることが避けられない。あるいはアメコミにおけるスーパーパワー(『X-MEN』シリーズのミュータント能力など)からのアレンジであったり、「能力」という概念が既に出来上がってしまっているのだ。

 

 しかし荒木が挑戦したのは、念動力(サイコキネシス)や念写、パイロキネシスなど、既存の「超常現象やオカルトとしての超能力」の視覚化だった。

 このスタート地点の違いが、スタンドのアイディアの自由さにも繋がっている。

 初めての試みであるがゆえに様々なアイディアが次々と盛り込まれ、新しいスタンドが登場するごとに「スタンドの定義」が拡張されていくと言ってもいい。

 端的なのは、当初「スタンドは一人につき一体」と作者自身が定義していたはずが、第四部で群体型スタンドが登場するにあたって「一人につき一体ではなく一人につき一能力」と修正が加えられた点などだろう。

 「近距離パワー型」「遠隔操作型」に加えて「近距離型並のパワーを持つ遠隔自動操縦型」という拡張概念が付け加えられたのも第四部からだ。

 また、あたかも一体のスタンドが複数の能力を持つように映る「エコーズ」や「キラークイーン」など、むしろ読者の側が「スタンド概念」について考察したくなるような欲求を刺激する。「スタンド大解析」というサイトはその集成であり、筆者も夢中になって閲覧し、時にはメールで考察意見を送ったことすらある。

 

 「スタンド考察」はジョジョ読者の多くが通った道であろうので、それ自体について触れることが本論の目的ではない。

 ただ、スタンドという概念に惹かれる理由として、あまりにも多様なタイプが立ち並ぶことによって、「スタンドらしさ」というイメージが非常に曖昧になっていることが挙げられる。

 「スタンドらしさ」とは何だろう? 他の能力ものや、アメコミのスーパーパワーとの違いは? そう考えてみると、まず「スタンド像による能力かどうか」という違いが言えそうだが、なかにはスタンド像を必要としないスタンド能力だって存在するのだ。

 

 この曖昧さは、筆者の専門分野(漫画研究)からすると、「漫画とは何か」という複雑な問題を連想する。

 漫画もまた、読者の多くが「漫画らしさ」というイメージを曖昧に共有しつつも、歴史的にはそのイメージが必ずしも通用しないケースに多く直面する文化なのだ。

 「漫画」と呼ばれていても形式的には別物であったり*2、形式的には「漫画」に似ているが当時は漫画扱いされていなかった、というケースがいくらでも見つかる。

 これは現実的に、アーカイブとして「世界中の漫画を収集しよう」と公的機関などが試みようとした時にぶちあたる問題であって、「漫画」と「漫画でないもの」の線引きが困難である以上、「手当たり次第にすべて収集する」という方法を取らざるをえないようだ。

 ただし、本当に手当たり次第では「漫画とは何か」を学術的に考えることはできない。

 この難問に対応するために、夏目房之介が(講演の場などで)提唱していたのが「中心と辺縁」という枠組みで捉えることである。

 あくまで便宜的な枠組みであるが、まずは誰もが「漫画」と認識するような「中心」を仮に設定する。例えば、日本で最も発行部数の多い漫画誌である『週刊少年ジャンプ』やそのコミックスはほぼ確実に漫画だと呼べるだろう。ここではアメコミやBDなど、文化ごとに「中心」を設定し直してもかまわないと思われる。

 そしてその中心を囲むようにして、周辺に「漫画のようなもの」が位置し、さらにそこからも遠ざかると「漫画ではないもの」として扱えばよいという考え方だ。

 その「漫画のようなもの」には、縦スクロールして読むWebコミックなどが含まれることになるだろう。

 完全に「漫画」と「漫画ではないもの」を一気に定義するのではなく、中間に「辺縁」を挟むことで便宜的に対応しようとするこの発想は、漫画以外のジャンルにおいても応用できる「定義論争への処方」であると思う。

 

 こうした考え方からすると、スタンドもまた魅力的なサンプルケースとして浮かび上がってくる。

 確かにスタンドには「スタンドらしさ」の中心があり、「スタンドのようなもの」の辺縁、そしてさらにその外部が揃っているからだ。

 スタンドらしさの中心とは何か? と問おうとするなら、やはり人型・近距離パワー型スタンドである「スタープラチナ・ザ・ワールド」と「ザ・ワールド」が思い浮かぶだろう。

 「スタープラチナ」ではない、という点も重要だ。「人型のスタンド像に一種類の特殊能力」という確固たるイメージは、やはりザ・ワールドの登場によって完成する。

 さらに第四部以降は、「クレイジー・ダイヤモンド」や「スティッキィ・フィンガーズ」のように、「スタンドが拳で殴った箇所に何らかの現象が発生する」というパターンが定着する。これらが「誰もがスタンドらしさだと感じるイメージ」の典型ではないだろうか。

 

 後の部によって拡張されたスタンドのイメージよりも、むしろ第三部にこそ例外が多く含まれていることにジョジョの読者は気付くだろう。

 「タワー・オブ・グレー」や「ダークブルームーン」はスタンドそのものの戦闘(運動)能力が高いだけで「特殊能力」らしい能力を持たないように映るし、「クヌム神」にはどうやらスタンド像が存在しない(スタンド使い本人は「顔のスタンド」と呼んでいるので、本体の顔自体がスタンドと一体化しているのかもしれないが)。

 スタンド像も「コンセント型」の「バステト女神」のように、今イメージされるようなスタンドのデザインとは異なる場合もある。

 

 最初期のスタンドである「ハーミット・パープル」は作者の試行錯誤を感じられる能力で、当初は「念写という超能力の視覚化」がテーマだったと思われる。

 元々「牢屋のなかに勝手に物を持ち込むことができる」能力として「念動力の視覚化」を行おうとしていた「スタープラチナ」と並んで、有名な超能力をスタンド化するというコンセプトだったのだ。

 しかし「念写のプロセスの視覚化」と言ってもどう具現化するのかは悩ましい。実際は「ポラロイドカメラを手刀で叩き潰す」という描写になったわけだが、これはよく考えると「超能力者が自分の手刀で叩き潰す」ことと行為そのものは同じで、手刀が纏っている「イバラ状の像(ビジョン)」は能力発動のプロセスに関与していないようにも見える。

 そのため、後になって描かれる「機械や電線にイバラのスタンドを入り込ませて操る」「地面を使って地図を描く」能力のほうが「スタンド能力っぽい」と感じるのではないだろうか。

 

 同じく最初期スタンドの「マジシャンズ・レッド」にも似た問題がある。念動力・念写と並んで有名な超能力「パイロキネシス」(キング小説ファンの荒木にとっては『ファイアスターター』もイメージしていただろう)の視覚化と言えるが、これもよく考えてみれば「半人半鳥のスタンド像」が技の名前と共に炎を出すという能力で、それ以前の「ううーんと念じる」超能力や、他の漫画の必殺技と本質的には変わっていないような気もする。違いは、炎の発生源がスタンド使いではなくスタンド像に移ったというだけで、炎が出るプロセスそのものを視覚化しているかというとちょっとどうかと思う。

 

 とは言え、荒木にとっては「超能力のプロセスの視覚化」だけが表現の目的ではなくなっていくことが後のスタンド能力からは窺える。

 温度操作のスタンドで言えば『ジョジョリオン』の「スピード・キング」が新たに登場しているが、そもそもこちらは「スタンド使い自身が対象に触れる」ことで発動する能力なのだ。

 スタンド像自体は描かれているものの、能力の発動はスタンド使いが触れることによる、という設定は『ストーン・オーシャン』以降から目立つようになる。例えば「ホワイトスネイク」のDISK化能力も、遠隔操作のできる人型スタンドではなく本体が触れたほうが即効性が高いという描写になっていた。つまり、「スティッキィ・フィンガーズ」タイプの人型スタンドを「中心」とするなら、少しズレた位置に移行していたと言えよう。

 

 ちなみに第三部は「武器型スタンド」や「憑依・一体型スタンド」など、人型ではないスタンドのアイディアも沢山投入されており、この「初期のスタンドの幅広さ」こそが後のスタンド能力の自由さに繋がっているとも言えよう。

 

 そしてスタンド概念の「辺縁」の最たるものが第四部の「アース・ウインド・アンド・ファイヤー」だろう。

 公式設定でも「スタンド使いなのかは不明」であり、クヌム神と同じくスタンド像を持たず、スタンド名も本編には登場しない。他のスタンド像は「見えるらしい」ので実はスタンド使いである、という説が有力でもある。

 個人的には「宇宙人という設定を本体に与えること自体が能力のスタンド」だから、スタンドとしての例外が多いのではないかと勝手に考えている。

 

 ここで面白いのは、アース・ウインド・アンド・ファイヤーのスタンド能力が「変身能力」ではないことだ。「宇宙人になる」能力であって、宇宙人だから変身もできる、という順序が正しいということになる。

 そういう捉え方をしてみると、タワー・オブ・グレーの特殊能力のなさや、エコーズやキラークイーンの複数能力の不思議も解くことができる。

 スタンドの「一人につき一能力」という定義も、そのスタンドが起こす「作用」や「現象」を個別に指しているわけではない。「スタンドの像や存在そのもの」をひっくるめて「一能力」なのだ。

 タワー・オブ・グレーはおそらく「高速で襲う」こと自体が視覚化されたスタンドの像(ビジョン)なのだろう。それでもなんとなく物足りなさはぬぐえないが……。

 エコーズも「しっぽ文字」や「フリーズ」がそれぞれ「能力」なのではない。まず「音のスタンド」という概念があり、その延長として擬音を操る技と、「アクトスリー→フリーズ」という「音の語呂合わせから来る*3追加技」をひとつ持つ。これらが全て「音のスタンド」の能力に含まれている。

 キラークーインも同様、「第一・第二・第三の爆弾」が「爆弾のスタンド」という一種の概念から発生しているのだ。第三のバイツァ・ダストに関しては「矢」の影響を無視できないものの、「一体のスタンドが二種類以上の能力を同時に所有している」という点ではやはり例外的なので、別の能力とするよりは、「爆弾のスタンド」という「概念」こそが「スタンド能力」の本質である、という説が言えるのではないだろうか。

 

 こうした捉え方は、そもそも「精密動作」と「時を止める」という二種類の能力を持つようにも見える「(スタープラチナ・)ザ・ワールド」にも当てはまることだろう。

 資料によっては(『ストーン・オーシャン』17巻)「あまりにもスピードが速すぎて時を越える」という解釈も見られるが、そこでは「超精密」のほうがスタンド能力の本質であるように書かれているのだ。確かに、精密に動くことも、精細に観察してスケッチすることも、「究極的に精密」であろうとするなら時を止めることに繋がるのだろう。

 これは「超スピードの精密動作能力」が先にあってそれを利用して時を止めている、という順の考え方をすべきではない。「超精密」という概念のなかに、精密動作や時を止める作用が含まれていると考えるべきなのだ。……例えば、超高速で動く物を「超精密に観察」したいなら、「超高速の動体視力」でも「時を止めて観察する」でも同じ結果が得られるのだから。

 

 最後に、「スタンドのようでないもの」として挙げるべきなのは、ジャイロ・ツェペリの「ボール・ブレイカー」なのだろう。

 スタンド大解析でも考察の対象になっておらず、原作ではっきりと「スタンド能力に近付いた技術」であって、スタンドではないものとされている。逆に、スタンド名のない「ジャイロ・ツェペリの鉄球(仮)」がスタンド扱いになるほどだ。ボール・ブレイカーはまさに「辺縁」の外に位置するが、「見かけ上はスタンドと見分けがつかない」能力なのである。

 漫画のように見えるが、漫画とは言い切れそうにないものが存在するように。 

 

 以上のごとく、「中心」と「辺縁」という言葉の枠組みで物事を捉えることは、それ自体が面白い。少なくとも、単なる定義論争(カテゴリー・エラーだとか、定義の例外を列挙していくだけの行為も含む)をしているよりは純粋に楽しく、有意義で、発見も多いのである。

*1:原文に《※『忍者武芸帳白土三平、三洋社・他、昭和34~37年。》の脚注あり

*2:例えば「一コマ漫画」は漫画ではないとする、というルールを決めたとしても対応しきれない例外があると考えていただきたい

*3:あまりにもこじつけすぎるが、だからドーダコーダ言うわけではない

なろう小説として『異世界はスマートフォンとともに。』を読む

 はじめに断っておくと、これは脱線した話のほうが多い記事なので「余談」が退屈な人が読むのはおすすめしない。内容はほぼ、筆者の日記や、友人に語っている雑談に近い。



 自分が異世界はスマートフォンとともに。(以下イセスマ)という作品に触れたのはTVアニメ第1話の放送後だったが、コミカライズ版が最初で、その後、原作もWeb版と書籍版をつまみ食い的に確かめるようになった。
 コミカライズ版はComicWalkerで第1話が無料で読めるため、まったく作品を知らないという人にはまずそこから読むことを推奨したい。

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 コミカライズ(漫画化)というメディアミックス企画は、慣習的に若手の新人が任されることが多く、そのためクオリティもピンキリである。
 オリジナルのストーリーを描くには漫画を描き慣れていないと見なし、まず原作付きで実力を付けさせようという意図があるのだろうが、そもそも「小説から漫画への翻訳」という作業そのものに「漫画力」「小説の読解力」という異なるスキルの高さが共に必要なのであって、本末転倒な気がしないでもない。

 さておき、このコミカライズの作画を担当する「そと」氏はまんがタイム系の四コマ作家で、ストーリー漫画はこれが初連載になると思われる。
 イラストレーターとしてはライトノベルのイラスト仕事もしていたようで、「小説の読解力」という点では経験があると言えそうだ。
 先述したとおり「ライトノベルのコミカライズ」の出来はピンからキリであり、その意味でこの作者は「アタリ」だと思う。
 第1話の見せ方が過不足なく巧い。絵柄も兎塚エイジのオリジナルとよく合っているし、小説特有の情報量もうまく漫画に落とし込んでいる。
 原作が一人称の小説だということは後から知ったが、すべてを主人公のモノローグにするわけでもなく、漫画らしい「描き文字」によって第三者的な情報をさりげなく加えるなどはスマートなアレンジである。
 「それ褒めるところか?」と思われるかもしれないが、世の中には逆に「三人称の地の文の描写をそのまま主人公のモノローグに置き換える」という呆れてしまうネームを書くコミカライズ作家だって多いのだ。
 例えば三人称の小説で「身の毛もよだつような敵の姿」という記述があったとする。それほど恐ろしい見た目なんですよ、と読者に伝える比喩表現であって、それに立ち向かう者たちは「恐怖を押さえ込んでいる」のかもしれないし、「恐怖を自覚できないほど緊迫している」のかもしれない。しかしこれを主人公が『それは身の毛もよだつような姿の敵だった……』などとモノローグで語ると、そんな心理描写もなかったのに何を自分から勝手に恐怖感を煽ってるんだという意味合いになる。こうゆう低レベルの「超訳」が珍しいとは言えないのが現実だ。
 比較対象が悪いと言えばそうだが、コミカライズとは「小説の情報をどれだけ咀嚼できるか」という理解力が如実に表れる仕事だ。そもそも小説の書き方をちゃんと理解できない作家が担当すると、原作読者にすれば目に当てられないコミカライズとなる。
 HJノベルスの編集部はその点、作品に対して手厚いようで、初書籍化のイラストに兎塚エイジ氏を連れてくるのも高待遇だし、コミカライズのそと氏も理解のある作家だと思う。

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 自分が「イセスマ」に興味を抱く動機の多くがそこにあって、つまり同じ作品の「小説(と挿絵)」「漫画」「アニメ」を見比べれば、それぞれの作家が「専門以外のメディアをどのように解釈・翻訳可能なのか」というメディアリテラシー格差が如実に表れてくる。本来、必要とされないスキルかもしれないがメディアミックスに関わるとなれば必須なのだ。また、「そのスキルのない作家にわざわざメディアミックスの仕事を与える」環境というのも考えさせられる問題となる。

 例えば横田卓馬のコミカライズ版『戦闘破壊学園ダンゲロス』などは「よい例」で、やはりこの人は元々の漫画力が高いからこそ原作小説を咀嚼できるのだと思わせるに足る。

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 客観的なナレーションと人物のモノローグを巧みに重ね合わせ、能力バトル小説にありがちな「能力解説の多さ」を漫画に落とし込むことに成功しているのだが、どうにも漫画家のなかには「客観的な解説を入れる」発想がないのか、それじたいに抵抗があるのか、頑なに「人物のセリフやモノローグ」で済ませようとする傾向があるようだ。
 おそらくデビュー前に「漫画でナレーションに頼るな」などと指導されていた弊害があるのではないかと睨んでいるのだが、世の中、ナレーションがあってこそ面白い漫画などゴマンとあるわけで、単純に漫画に対する研究が足りていないと思わざるをえない。
 強引なセリフに翻訳することを良しとするくらいなら、「セリフ(文字)に頼らない作画」を目指したほうがマシだ。その画力もないのなら、まずもって「ナレーションに頼ったら負け」のような何の役にも立たないプライドを捨てるべきだろう。
 ちなみに三人称文体をモノローグに置き換えるテクニックとしては、「その文章で描写されている人物自身」に地の文を代弁させるのはだいたいアウトだが、「その場面の第三者的な人物」を三人称の代理にして語らせるならスムーズにできる、など色々ある。

 それはさておき、イセスマのコミカライズに感心してから、ネットで不評だったTVアニメの1話を観たわけで、「内容はともかくスタッフが下手」だということはすぐにわかった。
 深夜アニメ業界は長らく深刻な人材不足が続いており、当然、監督や演出家、そしてスタッフを集めるプロデューサーにも当たり外れが激しい。
 アニメ版イセスマの監督である柳瀬雄之氏はアニメーター出身の演出家で、過去の監督作品は5分アニメが2本のみ。
 アニメーターとしてのキャリアは長いが、長編小説を読み込まなければならない文芸能力を期待するような人ではなく、こういう監督の場合は、よほど原作者やプロデューサー、シリーズ構成などが監督に代わって文芸面での意思決定をコントロールしていないとうまくいかないケースが多々あったはずだ。しかし監督が悪い、とはあまり責めたくはないので、「そう都合よく適材適所のスタッフを集められない」業界そのものに問題があると言える(さらに言うと、人を集めるプロデューサーがアニメ化に必要な能力を理解してない、というネックもあるが)。
 実際、アニメ版は「伝えるべき情報」の取捨選択がヘタなだけでなく、原作にない不要なセリフを付け加えたり、そもそも低予算なのだろうが構図やカット割りのおかしさまで指摘されている。予算がないから手を抜いている……どころか「手抜きのやり方すらもヘタ」と評されるほどだ。
 最低限の文芸チェックもできておらず、例えば書籍版のセリフで「永遠(とわ)氷壁」とルビを振ってある呪文を「えいえん氷壁」と発音させるなど、脚本家は(ルビのない)Web版だけを参照していたのか? という疑いもある。
 単に「えいえん」じゃ聞いたニュアンスがおかしいだろう、と言いたい話ではなく(思わず書籍版をチェックしたくらい違和感があったからこそ発覚したミスではあるが)、「長編小説を読み込んで作業しなければならない」という脚本家の労力に対し、文字検索もしやすいだろうWeb版だけでセリフのチェックを済ませている、細かいところで手を抜いてるなあという違和感だ。

 コミカライズ版と読み比べてみると理解できるだろうが、まず主人公の演技プランがアニメ版では異なる。「お人好し」という側面を拾ったのだろうが、常にニコニコしていて、いかにも内面希薄で自分の意志がなさそうな主人公像だ。
 原作をあるていど読めばわかってくることだが、この主人公は大層な暴れん坊だった祖父の影響でケンカ慣れしており、その祖父を亡くした直後はかなり荒れていた時期もあるという、どちらかというとかなり不良寄りの少年である。
 不良、と呼ぶと聞こえが悪いものの、「見た目は優等生で根は優しいが、不良ともケンカする」という「いいやつだが怒らせるとガラが悪い」設定は少年漫画やヤンキー漫画ならむしろ馴染み深いだろう。
 主人公の冬夜くんは「正義」というより「義理」で動くという意味での人格者であって(その価値観的にもヤンキー漫画に近い)、身内と判断した人間は何よりも大事に思いつつ「身内の敵」や悪党へかける情は薄い、という側面は後々判明する事実ではあるが、コミカライズ版ではそうした含みのある人間性もあらかじめ踏まえて読めるようにされている。
 イセスマの原作者は、女性説の憶測が立っているくらいなのだが(ただし憶測は憶測)、そと氏も女性向けゲームをよくプレイしている様子からすると女性なのだろうか。(鬼畜系やマッチョなハーレム主人公だったら別だと思うが)むしろ異性の視点からのほうがハーレム主人公をうまく描きやすいのかもしれないと思わなくもない。

 アニメ版の主人公には内面や意志もなさそうという点についても。アニメでは状況に流されるまま何も感じていないように見えるが、実のところ「元の世界」や「実の家族」への未練を断ち切っていないようすが小説では繰り返し描かれる。祖父を亡くした反動で荒れていたくらいなのだから、親孝行への思いも人並以上に強いようなのだ。
 これは「元の世界への未練は基本的に存在しないものとする」なろう系の異世界転生小説ではそこそこ珍しいことで、一種のパターン外しでもある。つまり、後々で「作品の個性」にも繋がる、欠かせない要素なのだ。
 また、異世界で婚約者を得るだけでなく、疑似家族としての神々がどんどん増えていく展開も、神の責任において転生させてしまった少年に「家族の喪失」を補わせてやるという思惑がサブテーマ(メインテーマかもしれない)になっていることが窺える。「おじいちゃんっ子」だった主人公が「老人姿」の神をとりあえず信頼するという導入のくだりも、後々で意味を増してくる話なのだ。
 コミカライズ版の第1話では「後悔しているのを顔に出さないよう感情を伏せている」とも解釈できるニュアンスで主人公の表情を描いているが、アニメ版ではそうした算段は当然ない。
 主人公の声優もそのニコニコした何も感じてなさそうな顔の雰囲気に合うよう能天気に演技しなければならないわけで、アニメで「声」の与える印象というのは大きなものだから、そこでキャラが確立してしまうというのも不憫な話(キャラにとっても声優にとっても)である。
 どれだけ頑張ってアニメの主人公を演じようが、それは後々の物語と合流しえない虚像であり、無駄骨となるからだ。

 余談だが、なぜこうした(率直に言えば、雑な)アニメの作り方でも原作者が表向き満足してそうだったり、監督も楽しそうにアニメ版の話をすることができるのか? というのは素朴な疑問だった。
 オトナだから、どうせ仕事だからという忖度で済ませる以上に、なんだか本当に楽しんでいて、それを良しとしているっぽい感覚がちょっと不思議だったのだ。
 自分なりに納得のいく解釈のひとつが、「悪い意味ではなくハードルが低い人というのはいるのだ」と思うことだった。
 世の中には「こんなもんでしょ」と言って消極的にハードルを下げる人も多いが、いや、別に志が低いわけでも諦めが早いわけでもなく、単に「気にしない」人がいるのだろうと今では感じる。
 私たちにも「意識せずハードルを下げている」ケースはいくらでもある。多くは「アマチュア作品だから」とか「昔の作品だから」とかそれでも悪い意味での擁護になりがちだが、「低予算だから」「時間が足りなかったから」とか、「邦画のCGがハリウッド映画並じゃないのは当然」みたいな受け取り方は当然するし、「ハリウッド並のクオリティに及ばないから」という理由で邦画を中傷する人を見ると「それは求めるものがおかしいだろ」と逆に批判したりもする。
 お笑い芸人が「作り込んだコント」を演じるよりも「10分で考えさせられた即興コント」のほうがあまり面白くなくて当然なのだが、同業者目線では「無茶ぶりを成立させた」ことが評価されてスベらないかぎり基本、絶賛されるという状況も近いかもしれない。
 また、そういう即興性のある仕事でギャラをもらうことに対するためらいもなかろう(ただ、抵抗のある芸人もいるかもしれない。それはつまり、その人が個人的な意志でハードルを高くしているということだ)。

 原作者も含めて、イセスマの関係者は声優やキャスティングの話題で主に盛り上がることが多いのだが、たぶん企画が進んでいる頃から「キャスティングが面白ければ勝ち」みたいな達成条件が共有されていたんじゃないかという雰囲気もある。
 オーディションで決められたメインキャストは、事務所の偏りも比較的小さく(かなり色んな事務所の声優にバラけている)、井上母娘を姉妹役にしたり、内田姉弟を兄妹弟子関係にしたり(しかもアニメでは描かれない関係だからほとんど楽屋ネタだ)、立木文彦中田譲治西村知道石井康嗣玄田哲章二又一成と男性声優がやたら渋かったり、稲田徹に「ケモノ頭の偉い人」役を与えたりと、「豪華で面白いキャスティングができればこのアニメはもうそれでよし」という満足感めいたものは確かに感じる。いわゆる「政治的なキャスティング」と呼ばれそうな要素がほとんどないぶん、確かにそれは「よくここまでこだわれた」と自慢してもいい部分なのだろう。
 プロデューサーも主題歌を歌うA応P側に近いので、A応Pメンバーが出演(それも福緒唯の一人だけ)していてキャラソンが良ければOK、みたいなゴーサインの出し方だったのかもしれない。
 逆にそれ以外のハードルが「とりあえずアニメになって動いてればいい」程度に低ければ、達成条件はクリアしているわけで描写がおかしかったり不要なお遊びが入ったりしていても、悪気なく気にせず満足するのかな、とそんな想像もさせるわけである。

ジャンルとしての異世界転生もの

 なろう系としては「パターン外し」だったという話だが、2013年から投稿が開始されたこの作品には、いくつも同ジャンルと差別化できる点がある。
 「小説家になろう」というサイトでは、2013年時点から異世界転生ものがジャンルとしての勢力を誇っていた。なんと言っても『この素晴らしい世界に祝福を!』が同じ年に「小説家になろう」で完結してるのだ(書籍化も同年)。単に流行っているのではなく、人気作の入れ替わりまで起きていた時期だと言える。
 投稿型サイトの常として、ランキングシステムというものがあり、その上位に入ることが閲覧者数の確保にも繋がる。その近道が「人気の異世界転生ものを書くこと」だというのは当時からの共通認識でもある。

 ここで「なろうの異世界転生もの」が「ジャンル」なのかという話にも触れておくべきだろう。
 「異世界に召喚・転移するファンタジーやSFなら古くからある」という指摘も多いが、それはたいして意味のない話だと思える。
 例えば「ジャンル映画」と呼ばれるもののうち、ゾンビ映画を例にしてもいいだろう。初期のゾンビ映画は「スプラッター・ホラー」というジャンルに分類されていたかもしれないが、ミラ・ジョヴォヴィッチの『バイオハザード』シリーズのように、むしろアクション映画だろう、という再認識をされることもある。
 ホラーではなくパニック映画として認識されることもあるし、「歩くゾンビと走るゾンビは違う」というマニアのこだわりも、スプラッタか、パニックか、スリラーか、サスペンスか、コメディか、というジャンルの渡り歩きを表しているようにも思える。
 「モンスター・パニック映画」というジャンルにおいても、「サメ映画」という狭いサブジャンルが発生し、「サメ映画というジャンルだと思うしかない」という状況も招かれる。
 Web小説から発生した「なろう系の異世界転生もの」もそうした狭いジャンルのひとつだろう。我々は「ジャンプのバトル漫画」を「ジャンプのバトル漫画」と呼ぶことに不都合を感じないが、それを「昔からあるジャンルだ」と指摘するとむしろ混乱が起こる。ジャンプのバトル漫画の源流となるジャンルを探ると、神話だったり講談小説だったりファンタジー、SF、任侠映画と特定不能になるからだ。源流探しはあくまで作品ごとの個々に行われるべきだ(何より、源流となるジャンルにしたって別に「バトルばっかりを主に描いてた」とはかぎらないのだし)。

 また、「ジャンル映画」を撮る作家も、「ジャンル小説」を書く作家も、その創作動機が「ジャンル」そのものにない、という状況は多い。
 例えばゾンビ映画の場合、確かに家元であるロメロの映画ならば、ベトナム戦争の体験が活かされ、人種差別などへの社会的メッセージをゾンビに込めたなどと「ゾンビを撮る動機」を論じることができるだろう。
 しかし後世のクリエイターは、「ゾンビ映画なら撮りやすかったから」とか、「ゾンビ映画じゃないと企画が通らなかったから」という消去法の理由で手掛けることもあろう。作るからにはゾンビ映画ファンの評価は気にするだろうし、別にゾンビが嫌いなわけでもなかろうが、スタッフとしてやりたいことは別にあってもいい。
 一時期のエロゲー業界で、「エロゲーでないとプロになれなかった」というライターが、エロシーンよりも得意なコメディシーンに力を入れているというのもよくある話だった。

 「小説家になろう」の異世界転生ものも、書きやすく、読まれやすいという状況でそれらとよく似ている。
 基本的に書くべき展開や、登場させるべきガジェットはだいたい決まりきっているから書きやすいのは当然だ。
 また、読者側にもメリットがある。似たような作品が多い、というのは飽きに繋がりそうだが、むしろ慣れてくると「どんな展開をするのかだいたい先を読める」ようになるので、つまらないか、面白くなりそうか、作者に実力はあるかの判断を直観で付けやすい。作品数に溢れたアマチュア投稿サイトだと、知らないジャンルを読むほうが評価するのも大変なのだ。

 「異世界転生もの以外が読まれにくい」という構造的問題の是非は脇に置くとして(どちらかというとよくないのだが)、2013年から書かれた異世界転生ものというと、どうしても「自然にそのジャンルを書くよね」くらいの印象しか持ち得ない。悪い意味ではなく、単にそれがWebで小説を書くなら自然なのだ。
 なんとなく格闘技を始めたい人が、ちゃんとした道場が近場に空手しかなかったとしたら、ボクシングや総合や合気道などにはあえて手を出そうと思わないようなものである。客観的に「あなたには伝統空手よりもフルコン空手のほうが向いているので転向したほうがいい」などとアドバイスしたくなっても、始めた本人にしてみればその道場で学んだことへの愛着が適性を上回っているかもしれない。

 ……などと言うのも、既存の「異世界転生もの」というジャンルじたいに深い思い入れはなかったのだろうな、と作者の発言からもなんとなく窺えるからだ。どちらかと言えば「自分もやっているうちに好きになる」タイプのような雰囲気がある。

 Web上ではすでに書き尽くされたというほど書かれている異世界転生ものだが、特に「チートでハーレム」を略した「チーレム」という分類があり、作者の「無双」という言葉はそれを意識したものだろう。
 チートの種類には、戦闘チートがあれば内政チートや技術チートや知識チートなどがあるものの、それで異世界を制覇することには重きを置いていない。過程であって目的ではないのだ。
 「基本的に書くべき展開やガジェットは決まっている」と先ほど触れたが、実際のところそれらのチートのアイディアはフリーウェア、Web作家の共有財産に似たところがあり、ノルマも決まっている。あとは料理のしかたなのだが、この作者から受ける印象は「料理のしかた」のほうに関心があって、何を料理するのか(=食材)にはオリジナリティを求めていない人というものだ。書籍版の1巻あとがきでも「ごちゃまぜにした鍋」という料理の比喩を用いている。
 主人公の「既存の魔法をコピーして自分にインストールできる」能力や、「自発的に異世界で何かをしようとする目標はないが、触れ合った人々や世界には責任感を抱く」「人を好きになるというより好きになってくれた人を好きになる」性格には、そうした作者の人柄が反映されているようにも感じる。

 さらに「ハーレム」の要素にしても、ハーレム願望が元から強い人という印象は受けない(女性説を採るなら当然とも言えるが……)。

 「心理学の性格分類に基づいたキャラクター創作」!!
 なんとなく伝わる人には伝わると思うが、これはずいぶん古典的なキャラクター創作法である。ユング心理学の元型(アーキタイプ)論やタイプ論など流派はいくつかあるが、客観的にバランスのよいキャラクターを配置したり、あまりキャラクターを考えるのが得意ではない人が連想法で量産するために便利な手法だ。
 つまり、「自分好みのヒロインを妄想のまま増やしていくぜ」という本能的な発想ではなく、最初から「9人という人数ありき」という前提でバランスを気にしながら設定していったのだろう。
 ちなみに「9」という数は「ワーグナーの戦乙女」の数にも対応しており、ヒロインは一人ずつ戦乙女の名のついた専用機を与えられる、という展開にも繋がっている。エニアグラムの数が先なのか、戦乙女の数にエニアグラムを当てはめたのか、は順序が判然としないが。

 それだけに、イセスマにはメインヒロインが存在しない。「自分が創作した以上、作者としてみんなに責任を持つ」という表現が似合うところだ。
 むろん、出番が均等でなかったり、ストーリー上で活かしにくい設定のヒロインも生じるだろうが、それこそ料理のしかたの問題だろう。意識的にひいきもしていないわけで、「均等なヒロインの扱い」を実践するとなると難しいところである。
 ちなみに個人的には、「適応力があって外面を気にする」という、スペック的にも汎用型なルーシア王女はわりと主役になりづらくて、やや影の薄めなヒロインだと思う(そこがいい、という人もいそうだが)。

 また、実在する性格分類である以上、作者が自分とタイプの近いヒロインほど愛着が湧きやすいのも仕方のないところだろう。
 それでもフラットであろうとする創作への姿勢は、なんとなく作者への好感が増した部分でもあった。欲望のまま赴くというタイプではなく、作品に対する責任感があって、ようは基本的にいい人っぽいのだ。
 そして、9人のヒロインたちもみんな「いいこ」ばかりというところに素朴な魅力がある。

 また、なろうのハーレム展開はノルマに近い、という認識は読者もそう思っているようで、婚約者全員とついに結婚した回の直後の読者感想を読むと微笑ましい。

一言
奥さん多い系だと何処の作品も初夜のイベント大変っぽいですよねなろう系だと(笑)

異世界はスマートフォンとともに。 - 感想一覧

 どの作品でもやることは決まっていて苦労がしのばれるけど、そこをどう描くか、という作者の「料理」を読者が楽しんでいるようすが窺える。
 それにイセスマにおける「均等なハーレム」という絆の構築は、かなり慎重な手続きで成立されている。
 まず「一夫多妻が普通の世界」という中世社会らしい前提が出てくるが、主人公はちゃんと現代感覚で驚くし、その上で「徳川将軍家とか確かにそうだったけど……」と地球の歴史を確かめたりもしつつ、異世界の常識を理解しようと努力する。クエスチョンを挟みながら受け入れていくわけだ。
 その上で、この異世界も(魔法があるので、地球の中世よりジェンダー格差はマシなのだが)「男性中心社会」であるのは間違いなく、一夫多妻と言っても夫の意志によって様々なバリエーションに分かれることも説明される。
 例えば、王族なら「一人の正妻と数人の側室、妾」という序列があり、妾がたくさんいても側室はあまり増やさない傾向があるという。夫が一途であれば、(世継ぎ問題を犠牲にしても)一夫一婦を貫くケースもある。妾ではなく女奴隷を集める国もあるなどと、世界の暗部も語られる。
 そして「あまり側室を増やさない」というのは、単に女性側の発言権を増やしたくないからという、男側の都合でもあると示唆される。単に女を囲いたいだけなら愛人でもよいのだ。
 ユミナ王女というヒロインは、そんな男主導の社会で「女も幸せを得られる一夫多妻制」を実現させようとした少女である。現に、「婚約者が9人いて全員が妻」という関係を他の王族が知ると、「珍しい」と言われるようだ。男にしてみれば、普通なら妾を増やすものなのだ。
 そこが重要なのだが、イセスマのハーレムは「異世界なら当たり前のハーレム」の恩恵にあずかる話ではなく、「異世界でも独特なハーレム」を、ヒロイン主導で発明する話になっている。
 結果、家庭内の発言権は完全に女性陣が握っているという、レディファーストの一夫多妻制が(この世界では「珍しい」例として)実現することとなる。
 9人の妻たちは、ユミナが「妻全員と仲良くできて」「損得抜きで主人公を愛している」「可愛い」女の子だけを選んで集めているので、夫の側には「家庭内の発言権がない」以外のデメリットがない。自分から女の子に惚れるより、好かれたら好き返すという「身内にしてから愛情が深まる」性格の主人公なので、互いに大事に思える可愛い女の子を何人も身内に迎えるのは確かに幸せなのだ。
 ユミナもそこまで考えて「主人公の幸せ」と「レディファースト」を両立させているわけで、おそらく一夫一婦というパワーバランスでは「女性上位の夫婦」にはならなかったのだろう、というのが中世ファンタジー世界における女性の戦略として面白いところだし、作者の女性説に根拠があるとしたら、こうした部分を指摘すべきなのだろう。

 「女性がスクラムを組んだら男が勝てるわけない」「結婚後は尻に敷かれる未来しか見えない」と何度も痛感する主人公だが、実際に結婚した後でなかなか切ないのは「セックスするタイミング」も女性側が選択できるようになし崩しで確定していることだ。妻全員と床入りする順番は「女性陣の合意」によって決まるから、つまり再生産労働としてのセックスサービスすらも女性が主導できる。夫との関係は妻同士で情報交換する合意もできているから、夫は一人の妻相手にヘタな要求をすることもできない。
 面白いのは物語上の展開でも男性側の「セックス権」が奪われていることで、わけあって主人公の肉体が若返って子どもになる、というエピソードが初夜を過ごした直後に入る。
 女性陣はセックスに関して一度満足しているらしく、ショタ化した主人公をひたすら愛でてもみくちゃにするのだが、男としては幼児退行させられたポルナレフみたいなもので、その状況を「少しばかり恨む」という非対称性が描かれる。妻が何人もいるのに「したいときにできない」のは男の側なのだ(逆に言えば結婚後は何度もやるつもりがあったというわけで、ラブコメ主人公にありがちな性的欲求のない聖人タイプでもないのだとわかる)。
 ちなみにそれが、この記事の執筆時点における最新エピソードなので、現状、主人公の冬夜くんは不可抗力によって禁欲させられっぱなし、ということになる。
 18禁小説ではないので性描写を回避したい都合による配慮とも言えそうだが、性に関してあくまで残念がってるのは男の側、というバランスがこの作品らしいところなのだろう。

 再び「チート」方面に話を戻すと、なろう小説の知識チートは、内政や産業における「革命(革新)」が目標になりやすいが、自分の手の届く範囲の外にはあまり関心のない主人公はせいぜいポケットマネーを稼いだり、身内に職を与える目的くらいにしか使わない。あとは遊びや実験、軍備のために仕方なく、という理由になる(軍備が必要なのも「別の異世界から襲ってくる脅威」に対抗する兵力は主人公たちが先導するしかないだけで、世界を変えるためではない)。
 それらを広く商売や政治に利用したいと話を持ち込んでくるのは異世界の目ざとい商人や王族たちで、どちらかというと主人公は「現地で利用される」側なのだ。
 内政に関しても、高校生らしく主人公に政治的な心得があるわけでもないので、為政者としては自分よりも優秀な現地のリーダーに任せっきりにしたり、教えを受けているくらいである。出番があるのは、先述したように「正義よりも義理で動く」人なので、ケンカの落とし前をつける時くらいとなる。
 あまり「現代知識という優越による革命」を志向しないという点でも、作者が「無双するお話ではない」と称するところなのだろう。
 そもそもファンタジーの物語なので、「地球の現代知識」よりも「神」のほうがよっぽど強く、主人公はそれに逆らわない、というのもよいブレーキとして働いているように映る。
 キーワードである「スマートフォン」も結局は神の力によって能力が拡張されていく「神器」なので、地球のテクノロジーよりも神の力が優越しているという世界観は一貫している。

 イセスマで特に活躍するのは「移動」「製作」に関わる魔法なのだが、これは読んでてけっこうワクワクする部分だった。
 なろうの「異世界もの」のルーツとして挙げていいのは『大長編ドラえもん』のシリーズだと思うのだが、イセスマは特にドラえもん色が強い。
 主人公の「既存の魔法をなんでもインストールできる」能力は便利だが、その半面、魔法そのものは「現地にあるしょうもない魔法」ばかりだったりもするわけで、融通がきかず効果範囲がショボかったりすることも多い。数は山ほどあるが、基本的に「未来デパートの子ども向けおもちゃ」なので使い所が難しいひみつ道具っぽいのだ。
 「短編ドラ」では制限のなかった「どこでもドア」が、「大長編ドラ」では急に「あらかじめ地図がないと行けない場所がある」と制限付きになる感覚にも近い。

 そのため転移魔法である「ゲート」には「見たことのある場所にしか扉を開けない」という制限があり、「ロングセンス」という遠視の魔法で遠くを見てから「ゲート」で移動することを思い付くのだが、「ロングセンス」じたいに距離制限があるので、遠視→ゲート→遠視→ゲートを繰り返して移動する、というみっともないとんちでなんとかするあたりは、いかにも大長編ドラの「敵のアジトに侵入するのに苦労する」プロセスを連想して面白かった。
 空を飛ぶ敵に対応するために飛行手段を探すくだりでも、「個人用の飛行魔法」と「高さ制限のある浮遊魔法」しか見つからず、他人と一緒に飛びたい時は「自分が飛行しながら相手を自分と同じ高さに浮遊させる」という手段しか取れず、相手には「浮かんでる感じが気持ち悪い」と言われて拒否られるくだりなどは実に融通が利かない話である。高速飛行したい時は防風用の魔法と併用しないと風当たりが激しくて痛い、という話も細かくてよい。

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 また、短編ドラにも共通する話だが、ドラえもんのエピソードでは「製造・建築」系のひみつ道具が好きだったという人は多いのではないかと思われる。
 設計図と材料を入れるだけでメカが作れる「メカ・メーカー」をはじめ、ぬいぐるみを作る「ぬいぐるみオーブン」に「ぬいぐるみカメラ」、機械を改造する「天才ヘルメット」と「技術手袋」、建築系では土木作業を簡単にする「らくらくシャベル」に「地下工事マシン」と枚挙にいとまがない。
 イセスマの冬夜くんは自分で作ったものをお小遣い稼ぎにすぐ結びつけようとするあたりがのび太っぽいが、イセスマでも「無から製造はできず、材料が必要」と言われることが多く、わりとしょうもない材料集めに奔走しなければならないあたりもドラえもんっぽい(石鹸1個や釘1本やマッチ100本が必要な「人間製造機」など)。その描写も淡々と、コツコツ部品を組み立てていったりとみみっちい作業になるのも味がある。
 冬夜くんは土魔法を併用することでかなり大規模な構造物(長大な壁など)も即席で作ることができるのだが、それが物語上どんな役に立つかよりも「スケールのでかい工作の楽しさ」みたいなのが先に来るのだ。

 冬夜くんの魔法とは別に、「バビロンシリーズの工房」というガジェットが登場してからは、その管理人たちが『宇宙小戦争』におけるスネ夫ドラえもん的なポジションを担ってロボットを量産していくことになる。このあたりのプラモデル感も子ども心全開で楽しい。
 ちなみにあくまで憶測だが、「大陸が鏡写しの裏世界」や「ロボットを組み立てて侵略者と戦う」あたりの発想はやはり『のび太と鉄人兵団』を下敷きにしているのではなかろうか(とはいえ偶然かも)。

 ちょっとピンポイントな部分の面白さについての話が続いたので、全体的なテイストについての話でそろそろまとめよう。
 価値観としてヤンキー的な世界に近い、というのはだいぶ前に触れたが、これは「作風を受け入れがたい」と思うような人にとってもけっこうカギとなる話なのではないかと思っている。
 これは筆者が独自に思い付いた話ではなく、イセスマは「オタク的な価値観というよりも、言ってみればマイルドヤンキーの価値観に近いんじゃないか」という指摘を見たことがあって、それは言えてるかもしれないなと思ったからだ。
 筆者は「マイルドヤンキー」という概念に詳しくないので断定は避けるし、逆に「ヤンキーを馬鹿にするな」と言われもしそうだが、話を進めさせていただく。
 オタクが好む物語の傾向としては「成長」や「葛藤」「信念」といったビルドゥングス・ロマンの要素が求められがちだが、その反動としてヤンキー的なものや、Jポップの歌詞のような価値観を小馬鹿にするような傾向もある。
 「社会よりも家族が大事」「俺たち家族、家族サイコー」「俺たちはサイコーだがそれ以外はダサい」「ケンカすると強い」「出会ってきた人々に感謝」みたいなフレーズを並べるとなんとなくどういう偏見を持っていると想像はつくだろうか。
 少年漫画を例にすると、オタクが好きなのはジャンプ漫画で、ヤンキーが好きなのはマガジン漫画と分けるとしたら、『ONE PIECE』と『FAIRY TAIL』の対比から考えることもできる。
 『ONE PIECE』は「海賊王になる」というストレートな立身出世と信念の物語であり、そこに仲間との友情が付随する話だが、『FAIRY TAIL』は「俺たちのギルドが最高」という身内がまず第一であり、仲間にケンカを売られたら買うし何かあればとにかくうちのギルドを一番にするぞ、という動機で話が動く。ようはチーマーの世界観をファンタジーに置き換えた漫画なのだ(「番長」や「任侠」を海賊に置き換えたワンピと対照的なのがそこだ)。
 『FAIRY TAIL』は単にワンピと絵柄が似ている漫画、とだけ思われがちな作品だが、実際は作者である真島ヒロが「ヤンキーのツボのわかる元ヤンっぽい漫画家」として編集部に評価された上で、正しくマガジン漫画として描かれ、ジャンプ読者と異なる層にヒットした「ジャンプ漫画への対抗馬」だったことを忘れてはならない。

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 イセスマは作者の言うとおりであるなら「コメディ」作品であり、先述したように「喪失した家族を回復させる」疑似家族のホームコメディがメインテーマだと言える。
 神とその眷属神という関係に組み込まれることで、主人公と妻たちは神話的な家族を手に入れるのだが、そういう意味で「家族が大事」「家族に感謝」という趣が強い。その上で神々の末席として世界を託されるという責任も負ってしまうため、「身内がよければ他はどうでもいい」とはならないのだが、「もし家族に手を出すやつがいたら何をやるかわからない」という逆鱗を持つのが主人公でもある。
 ヤンキー漫画的に言うと、家族が自分のチームであり、何よりも最優先。世界全体が「シマ」のようなもので責任は負うが、なるべく自治的に放任するし外敵を排除する場合以外は干渉しない。人から頼られれば応じるが、自分がシマをどうこうしたいという意志はない。
 そんなバランスなので、「何かを目指す」ようなジャンプ漫画的王道展開は確かに望むべきではない話ではあるし、主人公がトントン拍子に出世するのも「家族が第一」というお話なので、別に出世じたいが目的ではないから、余計にさらっと流されていくわけだ。
 作者の関心は、出世して家庭を安定させること、出世に伴って増える身内のコメディを充実させることにある。こうまとめると、確かにオタクというより一般人っぽい願望だなという気がする。実際、Facebookでも始めたら家族の写真ばかり投稿しそうな大人キャラが大勢出てくるのだ。

 また、ヤンキー的な価値観は「強さ」にこだわらないイメージがある。むしろ自分が強くないといけないのは当たり前で、肝心なのは自分(自分たち)の基準だ。漫画『クローズ』の「たかが最強程度で最高に勝てるわけがねーだろ」という価値観(=最高ならば最強には負けないというロジック)はよく知られているが、オタクの好きな強さ議論というものは「ダサい」ものなのかもしれない。
 イセスマの「無双そのものには関心がなく、身内を守れればそれで充分」、という価値観はそれに通じるかもしれない。単純な強さなら「神々」という張り合う気すらなくなるグループがいるので高みを目指す動機も薄いのだ(と言いつつ、その神の側に修行好きのキャラがいて、ヒロインや脇役たちもけっこう修行が好きなのが多いため、物語上ではしょっちゅう鍛錬しているイメージがある。努力家がいないという意味ではなく、むしろ努力家ばかりだ。それが日常であり、自然なのである。努力が否定されることもない)。

 イセスマの作者は書籍版6巻のあとがきで、悪役を描くのはどうも苦手で「悪の美学」を持つような大物を描けない、小悪党になりがちだと告白しているが、「悪の美学」にせよ「悪なりの正義を持った敵」にせよ、単純な勧善懲悪から外れた思想(相対的な正義)を好むのがオタクの性質という気がする。
 してみるとイセスマでは、「いいやつ」や「いい子」は本当に仲間思いないいやつで、悪党は悪党という勧善懲悪がはっきりしていると感じる。そしてゲスな悪役をとことんゲスとして描くのは過激とも思えるくらい徹底している。
 このあたりの手つきもヤンキー漫画っぽいと言えばそうかもしれない。
 苦手な人は苦手と感じても別にかまわないし、しかし「好みじゃないから」という理由で差別していいような表現だというわけでもない。

 オタクもヤンキー的なコンテンツが嫌いというわけではなく、趣味として好きな人だってむろん多いはずだ。しかしビジュアルがライトノベル風の作品のテイストがヤンキー的だとはあまり想像しないだろうし(『FAIRY TAIL』もその理由で読まずに偏見を持つ人が多いタイプだ)、ただただ価値観の違いに対し、「理解しがたい」と言って拒否反応を示すことになる。
 確かなのは、その多くがまだ若いだろうイセスマの読者にとって、その価値観は別に抵抗感のあるものではない、というだけのことだ。

 アニメ版の主人公の造形がああなったことも含めてだが、監督やスタッフ側もイセスマを「オタク的な価値観」で解釈し、また視聴者もその延長で「オタク的な作品」を価値基準とした結果、いろいろなミスマッチングにつながっていたのではないかという思いもする。
 もちろん、イセスマじたいは充分オタクっぽいし、当然、まったくヤンキーっぽくないと言っていい(というか、論旨のためにむりやりヤンキーという概念を借りただけで、積極的にその言葉を使いたいわけではない。たぶん実際はもっと適切な表現があるはずだが、リアルな読者層に触れたことのない筆者がそれを知らないだけだ)。

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おまけ

 イセスマはオタクっぽいかぽくないか? という話の延長で言うと、主人公の冬夜くんも高校生なりにアニメが好きなようで、一昔前のロボットアニメの知識も一通りあるようだ。
 具体的な名前こそ出てこないが、ファーストガンダムガオガイガーなどを意識したロボットの話は、「工房」の管理人がオリジナルロボの製作をする際の参考にされている。

 これはパロディ(引用)の手法としてはけっこう好きなアプローチで、「作者が知っている現実のコンテンツからアレンジしたものを自分の作品に出す」のがメタ的な引用だとすると、「作品内に現実と同様のコンテンツが存在する前提で、作品内の登場人物がそのコンテンツを参照する」という作品内での引用がイセスマでは多用されている。
 もちろん名前やビジュアルをそのまま出してしまうと権利的なカドが立つため、知ってる人にだけ伝わるような書き方をするのだが、具体的な作品をボカしたまま引用しやすいのは小説の特権だろう。これが漫画やアニメだと、ヘタすりゃモザイクやピー音だらけになるかもしれない。

 とはいえガンダム勇者シリーズなら、男子が子どもの頃に見るよね、と思うていどのアニメで、世代の違うアニメとは言ってもケーブルテレビやレンタルで観る機会はいくらでもあったろう。
 冬夜くんの両親は作家という設定なのもあり、洋画からアニメ、ゲームまで娯楽には寛容な家庭だったようだが、まだ高校生だしオタクっぽいかというと微妙なところだ。美少女ゲームや深夜アニメのような「濃い」趣味の話はほとんどなく、なんというか「お茶の間のテレビ」っぽい感覚の趣味にとどまっている。なにせ他に触れられるアニメの話といえば、ジブリ映画とか「再放送で見た『キテレツ大百科』」とかなのだ。

 アニメの引用ではなく、かなり好きなのが音楽の引用の仕方だったりする。
 祖父(孫よりも仮に半世紀歳上として、1940年代や昭和20年代生まれか?)がビートルズ世代らしく、冬夜くんはその影響でクラシックやオールディーズを中心にピアノ演奏を身に付けている(子どもの頃からピアノを習わせていたのは親のようだが)。
 何のための設定かというと、「桜」という婚約者の一人が「歌がうまい」という特技を持っているので、彼女のために地球の歌を教えるというエピソードがいくつかあるのだが、その際の曲のチョイスがおじいちゃんの影響だけあってなかなかに渋い。
 覚えているかぎりでは、まずビートルズの「HELP!!」に、ミッシェル・ポルナレフの「Tout, Tout Pour Ma Cherie(シェリーに口づけ)」、アース・ウィンド・アンド・ファイアーの「September」、ジョン・デンバーの「Take Me Home, Country Roads(カントリー・ロード)」、ワム!の「Wake Me Up Before You Go-Go」、チャック・ベリーの「Johnny B. Goode」、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の主題歌「The Power Of Love」。
 そう、見事に「曲名は知らなくても、日本人なら必ず聴いたことのあるようなヒットナンバー」ばかり引っ張ってきているのだ。思わず曲名を確定させて(小説には簡単なヒントだけ書かれている)YouTubeで検索し、実際に聴きながら読んでしまった。

 特に「The Power Of Love」の使い方がすごくいい。作中ではいわゆる「歌唱魔法」というやつで、戦闘中に歌うことで魔法的な補助効果を与えるというポジションに「桜」が立つのだが、その時の定番曲が『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の「The Power Of Love」なのだ。

 僕たちを近づけさせないためだろうが、あいにくとこっちには歌姫がいる。

『させない』

 桜のロスヴァイセから力強い歌声が響き渡る。
 確かあの曲は以前変異上級種の核を探すのに使用された曲だ。
 そのものズバリ『愛の力』というタイトルのこの曲は、タイムスリップもので有名な映画の主題歌である。世界を回す力。それが愛の力。
 その前にはどんな奴だって無力。邪神だろうとてそれは同じ。

異世界はスマートフォンとともに。 - #423 愛の力、そして邪神脱皮。

 うーん、エモい
 まさかこの曲も、ライトノベルの戦闘シーンでこんな使われ方をされるとは思ってもみなかったろう(そりゃそうだ)。
 というかこの小説を読むまで、BttFのあの曲が「愛の力」と訳せることなどほとんど意識していなかったくらいだ。

But you'll be glad baby when you've found
That's the power makes the world go'round

でもそいつを発見できたってのは
素晴らしいことなんだぜ
愛の力が世界を回してるってことをさ!

The Power Of Love / パワー・オブ・ラブ (Huey Lewis & The News / ヒューイ・ルイス & ザ・ニュース)1985 - 洋楽和訳 (lyrics) めったPOPS

 女性ボーカルが想像つかない人は、女性ボーカルのアコースティック・カバーがYouTubeにあるので聴いてみてもいいだろう。


Anya Marina- The Power of Love (Cover) Back to the Future - @OpieRadio @JimNorton

 他にも冬夜以外のキャラがなぜか「ジムノペディ」のギターアレンジを演奏したり、いかにも「誰もが聴いたことのある曲」なのに使い方が妙に味があっていいのだ。
 渋い……が、マニアックでもない、という塩梅。

 これらの引用のセンスも、「お茶の間」の感覚というか、一般的な音楽知識しかない人でもひっかかるような配慮と、なおかつ作者自身の懐古趣味でもあるんだろうな、という原体験が伝わってくる。
 ファンタジー世界の話なのに、現実の聴き慣れたオールディーズが入り込むというギャップの強さも異化効果を誘ってきて面白い。素直にうまいと思う。

 ここでも作者は、オリジナリティで勝負するよりも「借り物」を料理する手法を選んでいるわけだが、それもこの作品のテイストとして一貫していることだと腑に落ちるところだろう。