『天気の子』が選択した「ヒロインと世界の天秤」

 『天気の子』を観たのは公開してから一週間ほど経ってからだった。
 前作君の名は。の延長線にありつつ、方向性の異なる面白さを生むことに成功しており、映画監督としての新海誠のバランス感覚は確かなものになったと言っていいと思う。
 後は人の好みになるだろうが、自分のなかでは両作とも甲乙つけがたい感動がある。

 そして『天気の子』について個人的に関心を抱いたのは、ヒロイン救出に至る展開を形作る世界観設定だった。
 何か、今まで見てきた「大事な人と世界を天秤にかける」パターンのお話とは、どうも違う気がした。

 これと似たような類型ってあったかなと記憶を探ってみてもなかなか思い浮かばないので、「新しいな」という印象を受けていたのだと思う。
 以下、この記事の読者が『天気の子』の結末を知っている前提で分析を進めていきたい。

「ヒロインと世界を天秤にかける」の類型

 ヒロインとそれ以外を天秤にかけてヒロインを救う、というだけの話なら、過去にいくらでもある。

 ヒロインが救われることやハッピーエンドを前提にすると、典型的なのは「結果的に両方救う」のパターンで、新海誠の初期作雲のむこう、約束の場所にしても「サユリを救うのか、世界を救うのかだ」という二択を迫る説明的なセリフがあった。それでもヒロイン(サユリ)を救おうとするが、結果的に……という結末になる。

 スケールの大きなファンタジーやSFの場合、「両方救う」と言っても、ヒロイン以外の世界には甚大な犠牲を払ってもらった上で、ギリギリで最悪の事態を回避する、といった決着にもなりやすい。
 そんなパターンを突き破る描き方として、ヱヴァ破の「世界を滅ぼしてでも綾波を救う」があったのだが、『天気の子』の世界観はそれとも似ていない。

ファンタジーとSFにおける災厄の類型

 前提として、ファンタジーやSFの類型の話になるのだが、「災厄」と「犠牲となるヒロイン」を設定する場合、色々な理由でその災厄は「外挿的な超常現象」になりやすい。

 『君の名は。』の「周期的に同じ地点に落ちる隕石」もそうだが、非現実的な、ありえない災厄にすることで寓話性が上がってエンタメにしやすく、「日常に戻る」オチも作りやすくなる。

 超常現象ほど日常に戻しやすい、というのはスーパー戦隊の怪人の能力で石化されたり、食べられたりした被害者は「怪人を倒す」ことで元通りになる、というのをイメージしてもらえばわかりやすいだろう。
 科学的に考えれば、ある現象を元に戻すにはその現象と同等以上のエネルギーがもう一度必要なのでは?と思うところだが、そもそも非科学的なのだからエネルギー収支が問題にならない。

 また、ファンタジーとしての寓話性が上がると、災厄を回避した顛末を「夢オチ」のように扱うことができる。
 『君の名は。』で、主人公たちが超常現象を利用してやったことの記憶が失われて「最初から何もしなかった結果として現実がある(が、しかし……)」という物語としても読めることにもその性質が利用されている。

 これは観客のいる現実と物語を地続きに感じてもらう意味もあって、例えば「世界を救って私たちは英雄扱いされた」だと誰にも体験できない偉人・超人の話になるが、「世界の記憶からなかったことにされる」だと「私たちは同じ夢を見てたかもしれない」という、ありうるかもしれないレベルの話になる。

 他にも「外部からの侵略者を人知れず倒したので世界にとっては丸々なかったのと同じになる」というのはプリキュアシリーズではほぼ毎年そうで、だから例外的に「プリキュアの存在が世間に定着する」というアメコミヒーロー*1のような展開を見せる『ドキドキ!プリキュア 』がかえって際立ったりする。

 外挿的ではなく「現実に内在する災厄」にするとエンタメになりにくい、というのは単純に「地味な設定だから」でもあるが、「現実の災厄」には「現実的な解決策」を採らないとどんな犠牲を払おうがご都合主義感が出るし*2、特に「元通り」はエネルギー収支の観点でやりにくい。
 できるとしたら、災厄は大地震や戦争などではなく、「人質に取られた子どもを見捨てるか犯罪者の要求を呑むかを選ぶ」や「危険地帯に取り残された子どもを救いに決死隊を送り込むか選ぶ」といった、まさに実録ドラマの題材にでもなりそうな話になるだろう。

 新海誠は『君の名は。』について「災害の死者を代償もなく蘇らせる映画だ」と批判されてショックを受けたというが、そもそも「あの隕石衝突はほとんど超常現象だったじゃないか」という錯誤は感じるものの、彼に「現実を連想させる災厄を解決する物語の難しさ」を強く意識させる切っ掛けにはなったはずだ。
 明白なSF設定として「外挿的な災厄」を描いていた『雲のむこう、約束の場所』との落差がそこにある。

 ちなみに、外挿的な災厄であっても(エネルギー収支を無視して)元通りの世界にしない、不可逆な現象として世界をシミュレーションしていくことがSF的だ、という考え方もできる。
 『シン・ゴジラ』のゴジラを封印した後の東京において、特殊な半減期を設定しながらもゴジラの撒き散らした放射能汚染は「なかったこと」にならず、ゴジラの姿もモニュメントのように居座り続ける、といったことだ。

「元凶」のヒロインと「供物」のヒロイン

 そうした災厄に対する「犠牲となるヒロイン」の立ち位置だが、「ヒロインが災厄の原因であり、殺すことで解決となる」元凶パターンと、「ヒロインの犠牲のみが災厄を解決する力を持つ」供物(人柱)パターンに分かれると思う。
 前者はヒロイン自身が外挿的、後者は災厄が外挿的とも言えるだろうか。

あの「天気」は超常現象なのか自然現象なのか

 ここまでが「類型」の前提とすれば、『天気の子』の災厄はどうだったろう。
 超常現象なのか自然現象なのか? どっちとも取れそうだが、少なくとも「実在する(した)自然現象」ではないので娯楽作品としてあまり心配せず楽しめる、いい塩梅に設定された「気象」だった。
(心配して見てしまう、というのは例えば『崖の上のポニョ』の災厄が、ヒロインを元凶とした超常現象とは言え「津波」や「洪水」そのものだったことなど。大雨でゆるやかに冠水していく『天気の子』の場合、死傷者や行方不明者をあまり連想せずに見ることができる。)

 まずその塩梅が、アイディアとして優れていたと思う。

 『天気の子』の天気は、映像的にはファンタジックな魚や龍のようなものが描かれているし、被害が局地的すぎるのもおかしい(前作の隕石落下地点のおかしさに通じる)のだが、「地球スケールでは不自然じゃない」と作中で強調される現象にもなっている。
 場所を東京に限定しなければ、温暖化による水位上昇で「水没して住めなくなる町」は全世界で現在進行形の問題なのだ。

 ファンタジーというよりは『月刊ムー』的なオカルト要素で説明するのは『君の名は。』の世界観と地続きだが、『天気の子』では怪しい占い師の「ホメオスタシス」という言葉(いわゆるガイア理論を連想させる)もあったように、災厄による変化自体が「大局的に見れば自然に起こること」という扱いになっている。
 つまり外挿的なありえない変化ではなく、内在的にありうることの象徴的な表現にも見えるのだ。

 『君の名は。』では「東京の風景もいつ消えてしまうかわからない」という、本作を先取りしたような主人公の台詞も出てくるが、「いつか人が住めなくなるかもしれない」「風景が全く変わってしまうかもしれない」という恐れは現実にある。

 日本列島を例に考えるなら、「水位上昇」よりもむしろ「夏の気温」のほうが差し迫った災厄として予想されており、直下型大地震小惑星衝突といった巨大災害だけが「人を住めなくする」のではないとわかる。

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  • NMBとまなぶくん 2018年6月15日放送(#259) 知っておくと生活に役に立つ!天気予報の雑学SP」より


 2019年の夏ですら、まさに日本人の生活は「もう今までのように過ごせない」と実感できるレベルだし、2020年のオリンピックや甲子園、そしてコミックマーケットなど、「今までの常識が通用しないことを前提にした議論」が求められるほど変化は切迫している。

 現代の温暖化は人為的な温室効果によるところが大きいが、そもそも地球環境は数万年・数百万年のスケールで寒冷化と温暖化を繰り返すサイクルがある。
 その長いスケールのなかでは、現生人類は「たまたま過ごしやすい時期に繁栄しているだけの種」とも言えて、『天気の子』でいう「元々海を埋め立ていた土地が海に戻っただけ」という、大局的な自然観にも通じるだろう。

 『天気の子』の「天気」は確かに超常現象に見えるが、作中では「世界は元々こういうものなんだ」と繰り返し強調される。

 それを外挿的な災厄ではなく「内在的な災厄」と呼ぶとすれば、現実的に(少年少女の力だけで)解決することは難しく、外挿的な手段で解決しても釣り合いが取れない。

君の名は。』から『天気の子』で変化した構造

 すると『天気の子』で天秤にかけられるヒロインの立ち位置は、先述の分け方だと「ヒロイン自身が元凶」ではないし、「外挿的な災厄に対する供物」でもなくなってくる。

 ヒロインは自分の意志で「東京を救うために自分を供物とする」が、それでは外挿的な手段で現実を変える、新海誠が前作で受けた批判の内容と同じになってしまう。
 
 新海誠は『君の名は。』への批判を受け止め、ただ批判を躱すのではなく、あえてその先へ踏み込もうとしたと言うが、確かになるほどと思える構造の変化がある。
 そもそも『君の名は。』の隕石は外挿的なSF設定を持つゆえに超常現象で解決できたのであり(だから本来なら批判に当たらない、という解釈をここでは一貫させておきたい)、『天気の子』の天気は内在的ゆえに安易に解決できない。

 そこで主人公が「災厄の解決を選ばない」という選択をするのは、ファンタジーとSFの類型から考えても納得できるのだ。

 『君の名は。』は一見、「ヒロインも救うし災厄も解決する」の両方選ぶ王道パターン*3で、『天気の子』は「片方だけ選ぶ」だから結末が変化している、という違いではない。

 物語的に「変えてもいい災厄」「変えがたい災厄」の違いが生じている。
 そして『君の名は。』の主人公は「起こるはずの災厄に干渉して結果を変化させる」ことでヒロイン救出を導くが、『天気の子』の主人公は「ヒロインが結果を変化させたはずの災厄を変化前に戻す」という、過程の構造ごと逆転しているのだ。

 思考実験的に作られたストーリーとも言えるが、これが「見たことがないやつかも」という、最初の印象に繋がっているのだろう。

 また、「元々こんな世界だから自分のせいで変わったと思わなくていい」と考える大人に対し、主人公は「自分たちが変えた」と信じようとしていることが物語のキモになっており、作品解釈の幅を広げている。これも非常にバランス感覚がいい。

 もしもの話として、ヒロインが一度結果を変えなければそのまま雨が降り続けるだけで水没まではいかなかったのではないか、とも思えるが、それはあの怒り狂う天気を「擬人化」して見た話でもあるし、ヒロインが人柱から逃れようとするほど天候が悪化していたことからして水没は既定路線の結果だったようにも思える。

 ただ、「ヒロインが起こした変化を主人公が元に戻しただけ」ではなく「自分たちが変えた」という実感を残すことが、少年少女を描くエンタメとしてのカタルシスを両立させるポイントだったのだろう。

天気の子

天気の子

*1:日本のアニメとしては、『スーパーマン』よりは『パーマン』を例に挙げるべきだろうか。

*2:パーマンやアメコミヒーローにしても自然災害の救助や犯罪者の取り締まりで活躍することがあるが、どちらかというと「人のために働きすぎるヒーローの苦悩」に焦点が当たりやすいとも言える。

*3:もっとも「ヒロインだけ救う」と「ヒロインと村人も含めて救う」の二択であって、「ヒロインを選ぶのか村人を選ぶのか」という天秤の話ではなかったが。