なろう小説として『異世界はスマートフォンとともに。』を読む

 はじめに断っておくと、これは脱線した話のほうが多い記事なので「余談」が退屈な人が読むのはおすすめしない。内容はほぼ、筆者の日記や、友人に語っている雑談に近い。



 自分が異世界はスマートフォンとともに。(以下イセスマ)という作品に触れたのはTVアニメ第1話の放送後だったが、コミカライズ版が最初で、その後、原作もWeb版と書籍版をつまみ食い的に確かめるようになった。
 コミカライズ版はComicWalkerで第1話が無料で読めるため、まったく作品を知らないという人にはまずそこから読むことを推奨したい。

異世界はスマートフォンとともに。 (1) (角川コミックス・エース)異世界はスマートフォンとともに。 (1) (角川コミックス・エース)
そと 兎塚 エイジ

KADOKAWA 2017-06-24
売り上げランキング : 9506

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


 コミカライズ(漫画化)というメディアミックス企画は、慣習的に若手の新人が任されることが多く、そのためクオリティもピンキリである。
 オリジナルのストーリーを描くには漫画を描き慣れていないと見なし、まず原作付きで実力を付けさせようという意図があるのだろうが、そもそも「小説から漫画への翻訳」という作業そのものに「漫画力」「小説の読解力」という異なるスキルの高さが共に必要なのであって、本末転倒な気がしないでもない。

 さておき、このコミカライズの作画を担当する「そと」氏はまんがタイム系の四コマ作家で、ストーリー漫画はこれが初連載になると思われる。
 イラストレーターとしてはライトノベルのイラスト仕事もしていたようで、「小説の読解力」という点では経験があると言えそうだ。
 先述したとおり「ライトノベルのコミカライズ」の出来はピンからキリであり、その意味でこの作者は「アタリ」だと思う。
 第1話の見せ方が過不足なく巧い。絵柄も兎塚エイジのオリジナルとよく合っているし、小説特有の情報量もうまく漫画に落とし込んでいる。
 原作が一人称の小説だということは後から知ったが、すべてを主人公のモノローグにするわけでもなく、漫画らしい「描き文字」によって第三者的な情報をさりげなく加えるなどはスマートなアレンジである。
 「それ褒めるところか?」と思われるかもしれないが、世の中には逆に「三人称の地の文の描写をそのまま主人公のモノローグに置き換える」という呆れてしまうネームを書くコミカライズ作家だって多いのだ。
 例えば三人称の小説で「身の毛もよだつような敵の姿」という記述があったとする。それほど恐ろしい見た目なんですよ、と読者に伝える比喩表現であって、それに立ち向かう者たちは「恐怖を押さえ込んでいる」のかもしれないし、「恐怖を自覚できないほど緊迫している」のかもしれない。しかしこれを主人公が『それは身の毛もよだつような姿の敵だった……』などとモノローグで語ると、そんな心理描写もなかったのに何を自分から勝手に恐怖感を煽ってるんだという意味合いになる。こうゆう低レベルの「超訳」が珍しいとは言えないのが現実だ。
 比較対象が悪いと言えばそうだが、コミカライズとは「小説の情報をどれだけ咀嚼できるか」という理解力が如実に表れる仕事だ。そもそも小説の書き方をちゃんと理解できない作家が担当すると、原作読者にすれば目に当てられないコミカライズとなる。
 HJノベルスの編集部はその点、作品に対して手厚いようで、初書籍化のイラストに兎塚エイジ氏を連れてくるのも高待遇だし、コミカライズのそと氏も理解のある作家だと思う。

異世界はスマートフォンとともに。 (HJ NOVELS)異世界はスマートフォンとともに。 (HJ NOVELS)
冬原パトラ 兎塚エイジ

ホビージャパン 2015-05-22
売り上げランキング : 5344

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

 自分が「イセスマ」に興味を抱く動機の多くがそこにあって、つまり同じ作品の「小説(と挿絵)」「漫画」「アニメ」を見比べれば、それぞれの作家が「専門以外のメディアをどのように解釈・翻訳可能なのか」というメディアリテラシー格差が如実に表れてくる。本来、必要とされないスキルかもしれないがメディアミックスに関わるとなれば必須なのだ。また、「そのスキルのない作家にわざわざメディアミックスの仕事を与える」環境というのも考えさせられる問題となる。

 例えば横田卓馬のコミカライズ版『戦闘破壊学園ダンゲロス』などは「よい例」で、やはりこの人は元々の漫画力が高いからこそ原作小説を咀嚼できるのだと思わせるに足る。

戦闘破壊学園ダンゲロス(1) (ヤングマガジンコミックス)戦闘破壊学園ダンゲロス(1) (ヤングマガジンコミックス)
架神恭介 横田卓馬

講談社 2012-06-06
売り上げランキング : 53293

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

 客観的なナレーションと人物のモノローグを巧みに重ね合わせ、能力バトル小説にありがちな「能力解説の多さ」を漫画に落とし込むことに成功しているのだが、どうにも漫画家のなかには「客観的な解説を入れる」発想がないのか、それじたいに抵抗があるのか、頑なに「人物のセリフやモノローグ」で済ませようとする傾向があるようだ。
 おそらくデビュー前に「漫画でナレーションに頼るな」などと指導されていた弊害があるのではないかと睨んでいるのだが、世の中、ナレーションがあってこそ面白い漫画などゴマンとあるわけで、単純に漫画に対する研究が足りていないと思わざるをえない。
 強引なセリフに翻訳することを良しとするくらいなら、「セリフ(文字)に頼らない作画」を目指したほうがマシだ。その画力もないのなら、まずもって「ナレーションに頼ったら負け」のような何の役にも立たないプライドを捨てるべきだろう。
 ちなみに三人称文体をモノローグに置き換えるテクニックとしては、「その文章で描写されている人物自身」に地の文を代弁させるのはだいたいアウトだが、「その場面の第三者的な人物」を三人称の代理にして語らせるならスムーズにできる、など色々ある。

 それはさておき、イセスマのコミカライズに感心してから、ネットで不評だったTVアニメの1話を観たわけで、「内容はともかくスタッフが下手」だということはすぐにわかった。
 深夜アニメ業界は長らく深刻な人材不足が続いており、当然、監督や演出家、そしてスタッフを集めるプロデューサーにも当たり外れが激しい。
 アニメ版イセスマの監督である柳瀬雄之氏はアニメーター出身の演出家で、過去の監督作品は5分アニメが2本のみ。
 アニメーターとしてのキャリアは長いが、長編小説を読み込まなければならない文芸能力を期待するような人ではなく、こういう監督の場合は、よほど原作者やプロデューサー、シリーズ構成などが監督に代わって文芸面での意思決定をコントロールしていないとうまくいかないケースが多々あったはずだ。しかし監督が悪い、とはあまり責めたくはないので、「そう都合よく適材適所のスタッフを集められない」業界そのものに問題があると言える(さらに言うと、人を集めるプロデューサーがアニメ化に必要な能力を理解してない、というネックもあるが)。
 実際、アニメ版は「伝えるべき情報」の取捨選択がヘタなだけでなく、原作にない不要なセリフを付け加えたり、そもそも低予算なのだろうが構図やカット割りのおかしさまで指摘されている。予算がないから手を抜いている……どころか「手抜きのやり方すらもヘタ」と評されるほどだ。
 最低限の文芸チェックもできておらず、例えば書籍版のセリフで「永遠(とわ)氷壁」とルビを振ってある呪文を「えいえん氷壁」と発音させるなど、脚本家は(ルビのない)Web版だけを参照していたのか? という疑いもある。
 単に「えいえん」じゃ聞いたニュアンスがおかしいだろう、と言いたい話ではなく(思わず書籍版をチェックしたくらい違和感があったからこそ発覚したミスではあるが)、「長編小説を読み込んで作業しなければならない」という脚本家の労力に対し、文字検索もしやすいだろうWeb版だけでセリフのチェックを済ませている、細かいところで手を抜いてるなあという違和感だ。

 コミカライズ版と読み比べてみると理解できるだろうが、まず主人公の演技プランがアニメ版では異なる。「お人好し」という側面を拾ったのだろうが、常にニコニコしていて、いかにも内面希薄で自分の意志がなさそうな主人公像だ。
 原作をあるていど読めばわかってくることだが、この主人公は大層な暴れん坊だった祖父の影響でケンカ慣れしており、その祖父を亡くした直後はかなり荒れていた時期もあるという、どちらかというとかなり不良寄りの少年である。
 不良、と呼ぶと聞こえが悪いものの、「見た目は優等生で根は優しいが、不良ともケンカする」という「いいやつだが怒らせるとガラが悪い」設定は少年漫画やヤンキー漫画ならむしろ馴染み深いだろう。
 主人公の冬夜くんは「正義」というより「義理」で動くという意味での人格者であって(その価値観的にもヤンキー漫画に近い)、身内と判断した人間は何よりも大事に思いつつ「身内の敵」や悪党へかける情は薄い、という側面は後々判明する事実ではあるが、コミカライズ版ではそうした含みのある人間性もあらかじめ踏まえて読めるようにされている。
 イセスマの原作者は、女性説の憶測が立っているくらいなのだが(ただし憶測は憶測)、そと氏も女性向けゲームをよくプレイしている様子からすると女性なのだろうか。(鬼畜系やマッチョなハーレム主人公だったら別だと思うが)むしろ異性の視点からのほうがハーレム主人公をうまく描きやすいのかもしれないと思わなくもない。

 アニメ版の主人公には内面や意志もなさそうという点についても。アニメでは状況に流されるまま何も感じていないように見えるが、実のところ「元の世界」や「実の家族」への未練を断ち切っていないようすが小説では繰り返し描かれる。祖父を亡くした反動で荒れていたくらいなのだから、親孝行への思いも人並以上に強いようなのだ。
 これは「元の世界への未練は基本的に存在しないものとする」なろう系の異世界転生小説ではそこそこ珍しいことで、一種のパターン外しでもある。つまり、後々で「作品の個性」にも繋がる、欠かせない要素なのだ。
 また、異世界で婚約者を得るだけでなく、疑似家族としての神々がどんどん増えていく展開も、神の責任において転生させてしまった少年に「家族の喪失」を補わせてやるという思惑がサブテーマ(メインテーマかもしれない)になっていることが窺える。「おじいちゃんっ子」だった主人公が「老人姿」の神をとりあえず信頼するという導入のくだりも、後々で意味を増してくる話なのだ。
 コミカライズ版の第1話では「後悔しているのを顔に出さないよう感情を伏せている」とも解釈できるニュアンスで主人公の表情を描いているが、アニメ版ではそうした算段は当然ない。
 主人公の声優もそのニコニコした何も感じてなさそうな顔の雰囲気に合うよう能天気に演技しなければならないわけで、アニメで「声」の与える印象というのは大きなものだから、そこでキャラが確立してしまうというのも不憫な話(キャラにとっても声優にとっても)である。
 どれだけ頑張ってアニメの主人公を演じようが、それは後々の物語と合流しえない虚像であり、無駄骨となるからだ。

 余談だが、なぜこうした(率直に言えば、雑な)アニメの作り方でも原作者が表向き満足してそうだったり、監督も楽しそうにアニメ版の話をすることができるのか? というのは素朴な疑問だった。
 オトナだから、どうせ仕事だからという忖度で済ませる以上に、なんだか本当に楽しんでいて、それを良しとしているっぽい感覚がちょっと不思議だったのだ。
 自分なりに納得のいく解釈のひとつが、「悪い意味ではなくハードルが低い人というのはいるのだ」と思うことだった。
 世の中には「こんなもんでしょ」と言って消極的にハードルを下げる人も多いが、いや、別に志が低いわけでも諦めが早いわけでもなく、単に「気にしない」人がいるのだろうと今では感じる。
 私たちにも「意識せずハードルを下げている」ケースはいくらでもある。多くは「アマチュア作品だから」とか「昔の作品だから」とかそれでも悪い意味での擁護になりがちだが、「低予算だから」「時間が足りなかったから」とか、「邦画のCGがハリウッド映画並じゃないのは当然」みたいな受け取り方は当然するし、「ハリウッド並のクオリティに及ばないから」という理由で邦画を中傷する人を見ると「それは求めるものがおかしいだろ」と逆に批判したりもする。
 お笑い芸人が「作り込んだコント」を演じるよりも「10分で考えさせられた即興コント」のほうがあまり面白くなくて当然なのだが、同業者目線では「無茶ぶりを成立させた」ことが評価されてスベらないかぎり基本、絶賛されるという状況も近いかもしれない。
 また、そういう即興性のある仕事でギャラをもらうことに対するためらいもなかろう(ただ、抵抗のある芸人もいるかもしれない。それはつまり、その人が個人的な意志でハードルを高くしているということだ)。

 原作者も含めて、イセスマの関係者は声優やキャスティングの話題で主に盛り上がることが多いのだが、たぶん企画が進んでいる頃から「キャスティングが面白ければ勝ち」みたいな達成条件が共有されていたんじゃないかという雰囲気もある。
 オーディションで決められたメインキャストは、事務所の偏りも比較的小さく(かなり色んな事務所の声優にバラけている)、井上母娘を姉妹役にしたり、内田姉弟を兄妹弟子関係にしたり(しかもアニメでは描かれない関係だからほとんど楽屋ネタだ)、立木文彦中田譲治西村知道石井康嗣玄田哲章二又一成と男性声優がやたら渋かったり、稲田徹に「ケモノ頭の偉い人」役を与えたりと、「豪華で面白いキャスティングができればこのアニメはもうそれでよし」という満足感めいたものは確かに感じる。いわゆる「政治的なキャスティング」と呼ばれそうな要素がほとんどないぶん、確かにそれは「よくここまでこだわれた」と自慢してもいい部分なのだろう。
 プロデューサーも主題歌を歌うA応P側に近いので、A応Pメンバーが出演(それも福緒唯の一人だけ)していてキャラソンが良ければOK、みたいなゴーサインの出し方だったのかもしれない。
 逆にそれ以外のハードルが「とりあえずアニメになって動いてればいい」程度に低ければ、達成条件はクリアしているわけで描写がおかしかったり不要なお遊びが入ったりしていても、悪気なく気にせず満足するのかな、とそんな想像もさせるわけである。

ジャンルとしての異世界転生もの

 なろう系としては「パターン外し」だったという話だが、2013年から投稿が開始されたこの作品には、いくつも同ジャンルと差別化できる点がある。
 「小説家になろう」というサイトでは、2013年時点から異世界転生ものがジャンルとしての勢力を誇っていた。なんと言っても『この素晴らしい世界に祝福を!』が同じ年に「小説家になろう」で完結してるのだ(書籍化も同年)。単に流行っているのではなく、人気作の入れ替わりまで起きていた時期だと言える。
 投稿型サイトの常として、ランキングシステムというものがあり、その上位に入ることが閲覧者数の確保にも繋がる。その近道が「人気の異世界転生ものを書くこと」だというのは当時からの共通認識でもある。

 ここで「なろうの異世界転生もの」が「ジャンル」なのかという話にも触れておくべきだろう。
 「異世界に召喚・転移するファンタジーやSFなら古くからある」という指摘も多いが、それはたいして意味のない話だと思える。
 例えば「ジャンル映画」と呼ばれるもののうち、ゾンビ映画を例にしてもいいだろう。初期のゾンビ映画は「スプラッター・ホラー」というジャンルに分類されていたかもしれないが、ミラ・ジョヴォヴィッチの『バイオハザード』シリーズのように、むしろアクション映画だろう、という再認識をされることもある。
 ホラーではなくパニック映画として認識されることもあるし、「歩くゾンビと走るゾンビは違う」というマニアのこだわりも、スプラッタか、パニックか、スリラーか、サスペンスか、コメディか、というジャンルの渡り歩きを表しているようにも思える。
 「モンスター・パニック映画」というジャンルにおいても、「サメ映画」という狭いサブジャンルが発生し、「サメ映画というジャンルだと思うしかない」という状況も招かれる。
 Web小説から発生した「なろう系の異世界転生もの」もそうした狭いジャンルのひとつだろう。我々は「ジャンプのバトル漫画」を「ジャンプのバトル漫画」と呼ぶことに不都合を感じないが、それを「昔からあるジャンルだ」と指摘するとむしろ混乱が起こる。ジャンプのバトル漫画の源流となるジャンルを探ると、神話だったり講談小説だったりファンタジー、SF、任侠映画と特定不能になるからだ。源流探しはあくまで作品ごとの個々に行われるべきだ(何より、源流となるジャンルにしたって別に「バトルばっかりを主に描いてた」とはかぎらないのだし)。

 また、「ジャンル映画」を撮る作家も、「ジャンル小説」を書く作家も、その創作動機が「ジャンル」そのものにない、という状況は多い。
 例えばゾンビ映画の場合、確かに家元であるロメロの映画ならば、ベトナム戦争の体験が活かされ、人種差別などへの社会的メッセージをゾンビに込めたなどと「ゾンビを撮る動機」を論じることができるだろう。
 しかし後世のクリエイターは、「ゾンビ映画なら撮りやすかったから」とか、「ゾンビ映画じゃないと企画が通らなかったから」という消去法の理由で手掛けることもあろう。作るからにはゾンビ映画ファンの評価は気にするだろうし、別にゾンビが嫌いなわけでもなかろうが、スタッフとしてやりたいことは別にあってもいい。
 一時期のエロゲー業界で、「エロゲーでないとプロになれなかった」というライターが、エロシーンよりも得意なコメディシーンに力を入れているというのもよくある話だった。

 「小説家になろう」の異世界転生ものも、書きやすく、読まれやすいという状況でそれらとよく似ている。
 基本的に書くべき展開や、登場させるべきガジェットはだいたい決まりきっているから書きやすいのは当然だ。
 また、読者側にもメリットがある。似たような作品が多い、というのは飽きに繋がりそうだが、むしろ慣れてくると「どんな展開をするのかだいたい先を読める」ようになるので、つまらないか、面白くなりそうか、作者に実力はあるかの判断を直観で付けやすい。作品数に溢れたアマチュア投稿サイトだと、知らないジャンルを読むほうが評価するのも大変なのだ。

 「異世界転生もの以外が読まれにくい」という構造的問題の是非は脇に置くとして(どちらかというとよくないのだが)、2013年から書かれた異世界転生ものというと、どうしても「自然にそのジャンルを書くよね」くらいの印象しか持ち得ない。悪い意味ではなく、単にそれがWebで小説を書くなら自然なのだ。
 なんとなく格闘技を始めたい人が、ちゃんとした道場が近場に空手しかなかったとしたら、ボクシングや総合や合気道などにはあえて手を出そうと思わないようなものである。客観的に「あなたには伝統空手よりもフルコン空手のほうが向いているので転向したほうがいい」などとアドバイスしたくなっても、始めた本人にしてみればその道場で学んだことへの愛着が適性を上回っているかもしれない。

 ……などと言うのも、既存の「異世界転生もの」というジャンルじたいに深い思い入れはなかったのだろうな、と作者の発言からもなんとなく窺えるからだ。どちらかと言えば「自分もやっているうちに好きになる」タイプのような雰囲気がある。

 Web上ではすでに書き尽くされたというほど書かれている異世界転生ものだが、特に「チートでハーレム」を略した「チーレム」という分類があり、作者の「無双」という言葉はそれを意識したものだろう。
 チートの種類には、戦闘チートがあれば内政チートや技術チートや知識チートなどがあるものの、それで異世界を制覇することには重きを置いていない。過程であって目的ではないのだ。
 「基本的に書くべき展開やガジェットは決まっている」と先ほど触れたが、実際のところそれらのチートのアイディアはフリーウェア、Web作家の共有財産に似たところがあり、ノルマも決まっている。あとは料理のしかたなのだが、この作者から受ける印象は「料理のしかた」のほうに関心があって、何を料理するのか(=食材)にはオリジナリティを求めていない人というものだ。書籍版の1巻あとがきでも「ごちゃまぜにした鍋」という料理の比喩を用いている。
 主人公の「既存の魔法をコピーして自分にインストールできる」能力や、「自発的に異世界で何かをしようとする目標はないが、触れ合った人々や世界には責任感を抱く」「人を好きになるというより好きになってくれた人を好きになる」性格には、そうした作者の人柄が反映されているようにも感じる。

 さらに「ハーレム」の要素にしても、ハーレム願望が元から強い人という印象は受けない(女性説を採るなら当然とも言えるが……)。

 「心理学の性格分類に基づいたキャラクター創作」!!
 なんとなく伝わる人には伝わると思うが、これはずいぶん古典的なキャラクター創作法である。ユング心理学の元型(アーキタイプ)論やタイプ論など流派はいくつかあるが、客観的にバランスのよいキャラクターを配置したり、あまりキャラクターを考えるのが得意ではない人が連想法で量産するために便利な手法だ。
 つまり、「自分好みのヒロインを妄想のまま増やしていくぜ」という本能的な発想ではなく、最初から「9人という人数ありき」という前提でバランスを気にしながら設定していったのだろう。
 ちなみに「9」という数は「ワーグナーの戦乙女」の数にも対応しており、ヒロインは一人ずつ戦乙女の名のついた専用機を与えられる、という展開にも繋がっている。エニアグラムの数が先なのか、戦乙女の数にエニアグラムを当てはめたのか、は順序が判然としないが。

 それだけに、イセスマにはメインヒロインが存在しない。「自分が創作した以上、作者としてみんなに責任を持つ」という表現が似合うところだ。
 むろん、出番が均等でなかったり、ストーリー上で活かしにくい設定のヒロインも生じるだろうが、それこそ料理のしかたの問題だろう。意識的にひいきもしていないわけで、「均等なヒロインの扱い」を実践するとなると難しいところである。
 ちなみに個人的には、「適応力があって外面を気にする」という、スペック的にも汎用型なルーシア王女はわりと主役になりづらくて、やや影の薄めなヒロインだと思う(そこがいい、という人もいそうだが)。

 また、実在する性格分類である以上、作者が自分とタイプの近いヒロインほど愛着が湧きやすいのも仕方のないところだろう。
 それでもフラットであろうとする創作への姿勢は、なんとなく作者への好感が増した部分でもあった。欲望のまま赴くというタイプではなく、作品に対する責任感があって、ようは基本的にいい人っぽいのだ。
 そして、9人のヒロインたちもみんな「いいこ」ばかりというところに素朴な魅力がある。

 また、なろうのハーレム展開はノルマに近い、という認識は読者もそう思っているようで、婚約者全員とついに結婚した回の直後の読者感想を読むと微笑ましい。

一言
奥さん多い系だと何処の作品も初夜のイベント大変っぽいですよねなろう系だと(笑)

https://novelcom.syosetu.com/impression/list/ncode/411402/?p=17

 どの作品でもやることは決まっていて苦労がしのばれるけど、そこをどう描くか、という作者の「料理」を読者が楽しんでいるようすが窺える。
 それにイセスマにおける「均等なハーレム」という絆の構築は、かなり慎重な手続きで成立されている。
 まず「一夫多妻が普通の世界」という中世社会らしい前提が出てくるが、主人公はちゃんと現代感覚で驚くし、その上で「徳川将軍家とか確かにそうだったけど……」と地球の歴史を確かめたりもしつつ、異世界の常識を理解しようと努力する。クエスチョンを挟みながら受け入れていくわけだ。
 その上で、この異世界も(魔法があるので、地球の中世よりジェンダー格差はマシなのだが)「男性中心社会」であるのは間違いなく、一夫多妻と言っても夫の意志によって様々なバリエーションに分かれることも説明される。
 例えば、王族なら「一人の正妻と数人の側室、妾」という序列があり、妾がたくさんいても側室はあまり増やさない傾向があるという。夫が一途であれば、(世継ぎ問題を犠牲にしても)一夫一婦を貫くケースもある。妾ではなく女奴隷を集める国もあるなどと、世界の暗部も語られる。
 そして「あまり側室を増やさない」というのは、単に女性側の発言権を増やしたくないからという、男側の都合でもあると示唆される。単に女を囲いたいだけなら愛人でもよいのだ。
 ユミナ王女というヒロインは、そんな男主導の社会で「女も幸せを得られる一夫多妻制」を実現させようとした少女である。現に、「婚約者が9人いて全員が妻」という関係を他の王族が知ると、「珍しい」と言われるようだ。男にしてみれば、普通なら妾を増やすものなのだ。
 そこが重要なのだが、イセスマのハーレムは「異世界なら当たり前のハーレム」の恩恵にあずかる話ではなく、「異世界でも独特なハーレム」を、ヒロイン主導で発明する話になっている。
 結果、家庭内の発言権は完全に女性陣が握っているという、レディファーストの一夫多妻制が(この世界では「珍しい」例として)実現することとなる。
 9人の妻たちは、ユミナが「妻全員と仲良くできて」「損得抜きで主人公を愛している」「可愛い」女の子だけを選んで集めているので、夫の側には「家庭内の発言権がない」以外のデメリットがない。自分から女の子に惚れるより、好かれたら好き返すという「身内にしてから愛情が深まる」性格の主人公なので、互いに大事に思える可愛い女の子を何人も身内に迎えるのは確かに幸せなのだ。
 ユミナもそこまで考えて「主人公の幸せ」と「レディファースト」を両立させているわけで、おそらく一夫一婦というパワーバランスでは「女性上位の夫婦」にはならなかったのだろう、というのが中世ファンタジー世界における女性の戦略として面白いところだし、作者の女性説に根拠があるとしたら、こうした部分を指摘すべきなのだろう。

 「女性がスクラムを組んだら男が勝てるわけない」「結婚後は尻に敷かれる未来しか見えない」と何度も痛感する主人公だが、実際に結婚した後でなかなか切ないのは「セックスするタイミング」も女性側が選択できるようになし崩しで確定していることだ。妻全員と床入りする順番は「女性陣の合意」によって決まるから、つまり再生産労働としてのセックスサービスすらも女性が主導できる。夫との関係は妻同士で情報交換する合意もできているから、夫は一人の妻相手にヘタな要求をすることもできない。
 面白いのは物語上の展開でも男性側の「セックス権」が奪われていることで、わけあって主人公の肉体が若返って子どもになる、というエピソードが初夜を過ごした直後に入る。
 女性陣はセックスに関して一度満足しているらしく、ショタ化した主人公をひたすら愛でてもみくちゃにするのだが、男としては幼児退行させられたポルナレフみたいなもので、その状況を「少しばかり恨む」という非対称性が描かれる。妻が何人もいるのに「したいときにできない」のは男の側なのだ(逆に言えば結婚後は何度もやるつもりがあったというわけで、ラブコメ主人公にありがちな性的欲求のない聖人タイプでもないのだとわかる)。
 ちなみにそれが、この記事の執筆時点における最新エピソードなので、現状、主人公の冬夜くんは不可抗力によって禁欲させられっぱなし、ということになる。
 18禁小説ではないので性描写を回避したい都合による配慮とも言えそうだが、性に関してあくまで残念がってるのは男の側、というバランスがこの作品らしいところなのだろう。

 再び「チート」方面に話を戻すと、なろう小説の知識チートは、内政や産業における「革命(革新)」が目標になりやすいが、自分の手の届く範囲の外にはあまり関心のない主人公はせいぜいポケットマネーを稼いだり、身内に職を与える目的くらいにしか使わない。あとは遊びや実験、軍備のために仕方なく、という理由になる(軍備が必要なのも「別の異世界から襲ってくる脅威」に対抗する兵力は主人公たちが先導するしかないだけで、世界を変えるためではない)。
 それらを広く商売や政治に利用したいと話を持ち込んでくるのは異世界の目ざとい商人や王族たちで、どちらかというと主人公は「現地で利用される」側なのだ。
 内政に関しても、高校生らしく主人公に政治的な心得があるわけでもないので、為政者としては自分よりも優秀な現地のリーダーに任せっきりにしたり、教えを受けているくらいである。出番があるのは、先述したように「正義よりも義理で動く」人なので、ケンカの落とし前をつける時くらいとなる。
 あまり「現代知識という優越による革命」を志向しないという点でも、作者が「無双するお話ではない」と称するところなのだろう。
 そもそもファンタジーの物語なので、「地球の現代知識」よりも「神」のほうがよっぽど強く、主人公はそれに逆らわない、というのもよいブレーキとして働いているように映る。
 キーワードである「スマートフォン」も結局は神の力によって能力が拡張されていく「神器」なので、地球のテクノロジーよりも神の力が優越しているという世界観は一貫している。

 イセスマで特に活躍するのは「移動」「製作」に関わる魔法なのだが、これは読んでてけっこうワクワクする部分だった。
 なろうの「異世界もの」のルーツとして挙げていいのは『大長編ドラえもん』のシリーズだと思うのだが、イセスマは特にドラえもん色が強い。
 主人公の「既存の魔法をなんでもインストールできる」能力は便利だが、その半面、魔法そのものは「現地にあるしょうもない魔法」ばかりだったりもするわけで、融通がきかず効果範囲がショボかったりすることも多い。数は山ほどあるが、基本的に「未来デパートの子ども向けおもちゃ」なので使い所が難しいひみつ道具っぽいのだ。
 「短編ドラ」では制限のなかった「どこでもドア」が、「大長編ドラ」では急に「あらかじめ地図がないと行けない場所がある」と制限付きになる感覚にも近い。

 そのため転移魔法である「ゲート」には「見たことのある場所にしか扉を開けない」という制限があり、「ロングセンス」という遠視の魔法で遠くを見てから「ゲート」で移動することを思い付くのだが、「ロングセンス」じたいに距離制限があるので、遠視→ゲート→遠視→ゲートを繰り返して移動する、というみっともないとんちでなんとかするあたりは、いかにも大長編ドラの「敵のアジトに侵入するのに苦労する」プロセスを連想して面白かった。
 空を飛ぶ敵に対応するために飛行手段を探すくだりでも、「個人用の飛行魔法」と「高さ制限のある浮遊魔法」しか見つからず、他人と一緒に飛びたい時は「自分が飛行しながら相手を自分と同じ高さに浮遊させる」という手段しか取れず、相手には「浮かんでる感じが気持ち悪い」と言われて拒否られるくだりなどは実に融通が利かない話である。高速飛行したい時は防風用の魔法と併用しないと風当たりが激しくて痛い、という話も細かくてよい。

大長編ドラえもん6 のび太の宇宙小戦争 (てんとう虫コミックス)大長編ドラえもん6 のび太の宇宙小戦争 (てんとう虫コミックス)
藤子・F・不二雄

小学館 1985-10-28
売り上げランキング : 19533

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

 また、短編ドラにも共通する話だが、ドラえもんのエピソードでは「製造・建築」系のひみつ道具が好きだったという人は多いのではないかと思われる。
 設計図と材料を入れるだけでメカが作れる「メカ・メーカー」をはじめ、ぬいぐるみを作る「ぬいぐるみオーブン」に「ぬいぐるみカメラ」、機械を改造する「天才ヘルメット」と「技術手袋」、建築系では土木作業を簡単にする「らくらくシャベル」に「地下工事マシン」と枚挙にいとまがない。
 イセスマの冬夜くんは自分で作ったものをお小遣い稼ぎにすぐ結びつけようとするあたりがのび太っぽいが、イセスマでも「無から製造はできず、材料が必要」と言われることが多く、わりとしょうもない材料集めに奔走しなければならないあたりもドラえもんっぽい(石鹸1個や釘1本やマッチ100本が必要な「人間製造機」など)。その描写も淡々と、コツコツ部品を組み立てていったりとみみっちい作業になるのも味がある。
 冬夜くんは土魔法を併用することでかなり大規模な構造物(長大な壁など)も即席で作ることができるのだが、それが物語上どんな役に立つかよりも「スケールのでかい工作の楽しさ」みたいなのが先に来るのだ。

 冬夜くんの魔法とは別に、「バビロンシリーズの工房」というガジェットが登場してからは、その管理人たちが『宇宙小戦争』におけるスネ夫ドラえもん的なポジションを担ってロボットを量産していくことになる。このあたりのプラモデル感も子ども心全開で楽しい。
 ちなみにあくまで憶測だが、「大陸が鏡写しの裏世界」や「ロボットを組み立てて侵略者と戦う」あたりの発想はやはり『のび太と鉄人兵団』を下敷きにしているのではなかろうか(とはいえ偶然かも)。

 ちょっとピンポイントな部分の面白さについての話が続いたので、全体的なテイストについての話でそろそろまとめよう。
 価値観としてヤンキー的な世界に近い、というのはだいぶ前に触れたが、これは「作風を受け入れがたい」と思うような人にとってもけっこうカギとなる話なのではないかと思っている。
 これは筆者が独自に思い付いた話ではなく、イセスマは「オタク的な価値観というよりも、言ってみればマイルドヤンキーの価値観に近いんじゃないか」という指摘を見たことがあって、それは言えてるかもしれないなと思ったからだ。
 筆者は「マイルドヤンキー」という概念に詳しくないので断定は避けるし、逆に「ヤンキーを馬鹿にするな」と言われもしそうだが、話を進めさせていただく。
 オタクが好む物語の傾向としては「成長」や「葛藤」「信念」といったビルドゥングス・ロマンの要素が求められがちだが、その反動としてヤンキー的なものや、Jポップの歌詞のような価値観を小馬鹿にするような傾向もある。
 「社会よりも家族が大事」「俺たち家族、家族サイコー」「俺たちはサイコーだがそれ以外はダサい」「ケンカすると強い」「出会ってきた人々に感謝」みたいなフレーズを並べるとなんとなくどういう偏見を持っていると想像はつくだろうか。
 少年漫画を例にすると、オタクが好きなのはジャンプ漫画で、ヤンキーが好きなのはマガジン漫画と分けるとしたら、『ONE PIECE』と『FAIRY TAIL』の対比から考えることもできる。
 『ONE PIECE』は「海賊王になる」というストレートな立身出世と信念の物語であり、そこに仲間との友情が付随する話だが、『FAIRY TAIL』は「俺たちのギルドが最高」という身内がまず第一であり、仲間にケンカを売られたら買うし何かあればとにかくうちのギルドを一番にするぞ、という動機で話が動く。ようはチーマーの世界観をファンタジーに置き換えた漫画なのだ(「番長」や「任侠」を海賊に置き換えたワンピと対照的なのがそこだ)。
 『FAIRY TAIL』は単にワンピと絵柄が似ている漫画、とだけ思われがちな作品だが、実際は作者である真島ヒロが「ヤンキーのツボのわかる元ヤンっぽい漫画家」として編集部に評価された上で、正しくマガジン漫画として描かれ、ジャンプ読者と異なる層にヒットした「ジャンプ漫画への対抗馬」だったことを忘れてはならない。

 イセスマは作者の言うとおりであるなら「コメディ」作品であり、先述したように「喪失した家族を回復させる」疑似家族のホームコメディがメインテーマだと言える。
 神とその眷属神という関係に組み込まれることで、主人公と妻たちは神話的な家族を手に入れるのだが、そういう意味で「家族が大事」「家族に感謝」という趣が強い。その上で神々の末席として世界を託されるという責任も負ってしまうため、「身内がよければ他はどうでもいい」とはならないのだが、「もし家族に手を出すやつがいたら何をやるかわからない」という逆鱗を持つのが主人公でもある。
 ヤンキー漫画的に言うと、家族が自分のチームであり、何よりも最優先。世界全体が「シマ」のようなもので責任は負うが、なるべく自治的に放任するし外敵を排除する場合以外は干渉しない。人から頼られれば応じるが、自分がシマをどうこうしたいという意志はない。
 そんなバランスなので、「何かを目指す」ようなジャンプ漫画的王道展開は確かに望むべきではない話ではあるし、主人公がトントン拍子に出世するのも「家族が第一」というお話なので、別に出世じたいが目的ではないから、余計にさらっと流されていくわけだ。
 作者の関心は、出世して家庭を安定させること、出世に伴って増える身内のコメディを充実させることにある。こうまとめると、確かにオタクというより一般人っぽい願望だなという気がする。実際、Facebookでも始めたら家族の写真ばかり投稿しそうな大人キャラが大勢出てくるのだ。

 また、ヤンキー的な価値観は「強さ」にこだわらないイメージがある。むしろ自分が強くないといけないのは当たり前で、肝心なのは自分(自分たち)の基準だ。漫画『クローズ』の「たかが最強程度で最高に勝てるわけがねーだろ」という価値観(=最高ならば最強には負けないというロジック)はよく知られているが、オタクの好きな強さ議論というものは「ダサい」ものなのかもしれない。
 イセスマの「無双そのものには関心がなく、身内を守れればそれで充分」、という価値観はそれに通じるかもしれない。単純な強さなら「神々」という張り合う気すらなくなるグループがいるので高みを目指す動機も薄いのだ(と言いつつ、その神の側に修行好きのキャラがいて、ヒロインや脇役たちもけっこう修行が好きなのが多いため、物語上ではしょっちゅう鍛錬しているイメージがある。努力家がいないという意味ではなく、むしろ努力家ばかりだ。それが日常であり、自然なのである。努力が否定されることもない)。

 イセスマの作者は書籍版6巻のあとがきで、悪役を描くのはどうも苦手で「悪の美学」を持つような大物を描けない、小悪党になりがちだと告白しているが、「悪の美学」にせよ「悪なりの正義を持った敵」にせよ、単純な勧善懲悪から外れた思想(相対的な正義)を好むのがオタクの性質という気がする。
 してみるとイセスマでは、「いいやつ」や「いい子」は本当に仲間思いないいやつで、悪党は悪党という勧善懲悪がはっきりしていると感じる。そしてゲスな悪役をとことんゲスとして描くのは過激とも思えるくらい徹底している。
 このあたりの手つきもヤンキー漫画っぽいと言えばそうかもしれない。
 苦手な人は苦手と感じても別にかまわないし、しかし「好みじゃないから」という理由で差別していいような表現だというわけでもない。

 オタクもヤンキー的なコンテンツが嫌いというわけではなく、趣味として好きな人だってむろん多いはずだ。しかしビジュアルがライトノベル風の作品のテイストがヤンキー的だとはあまり想像しないだろうし(『FAIRY TAIL』もその理由で読まずに偏見を持つ人が多いタイプだ)、ただただ価値観の違いに対し、「理解しがたい」と言って拒否反応を示すことになる。
 確かなのは、その多くがまだ若いだろうイセスマの読者にとって、その価値観は別に抵抗感のあるものではない、というだけのことだ。

 アニメ版の主人公の造形がああなったことも含めてだが、監督やスタッフ側もイセスマを「オタク的な価値観」で解釈し、また視聴者もその延長で「オタク的な作品」を価値基準とした結果、いろいろなミスマッチングにつながっていたのではないかという思いもする。
 もちろん、イセスマじたいは充分オタクっぽいし、当然、まったくヤンキーっぽくないと言っていい(というか、論旨のためにむりやりヤンキーという概念を借りただけで、積極的にその言葉を使いたいわけではない。たぶん実際はもっと適切な表現があるはずだが、リアルな読者層に触れたことのない筆者がそれを知らないだけだ)。

異世界はスマートフォンとともに。10 (HJ NOVELS)異世界はスマートフォンとともに。10 (HJ NOVELS)
冬原パトラ 兎塚エイジ

ホビージャパン 2017-09-22
売り上げランキング : 1281

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

おまけ

 イセスマはオタクっぽいかぽくないか? という話の延長で言うと、主人公の冬夜くんも高校生なりにアニメが好きなようで、一昔前のロボットアニメの知識も一通りあるようだ。
 具体的な名前こそ出てこないが、ファーストガンダムガオガイガーなどを意識したロボットの話は、「工房」の管理人がオリジナルロボの製作をする際の参考にされている。

 これはパロディ(引用)の手法としてはけっこう好きなアプローチで、「作者が知っている現実のコンテンツからアレンジしたものを自分の作品に出す」のがメタ的な引用だとすると、「作品内に現実と同様のコンテンツが存在する前提で、作品内の登場人物がそのコンテンツを参照する」という作品内での引用がイセスマでは多用されている。
 もちろん名前やビジュアルをそのまま出してしまうと権利的なカドが立つため、知ってる人にだけ伝わるような書き方をするのだが、具体的な作品をボカしたまま引用しやすいのは小説の特権だろう。これが漫画やアニメだと、ヘタすりゃモザイクやピー音だらけになるかもしれない。

 とはいえガンダム勇者シリーズなら、男子が子どもの頃に見るよね、と思うていどのアニメで、世代の違うアニメとは言ってもケーブルテレビやレンタルで観る機会はいくらでもあったろう。
 冬夜くんの両親は作家という設定なのもあり、洋画からアニメ、ゲームまで娯楽には寛容な家庭だったようだが、まだ高校生だしオタクっぽいかというと微妙なところだ。美少女ゲームや深夜アニメのような「濃い」趣味の話はほとんどなく、なんというか「お茶の間のテレビ」っぽい感覚の趣味にとどまっている。なにせ他に触れられるアニメの話といえば、ジブリ映画とか「再放送で見た『キテレツ大百科』」とかなのだ。

 アニメの引用ではなく、かなり好きなのが音楽の引用の仕方だったりする。
 祖父(孫よりも仮に半世紀歳上として、1940年代や昭和20年代生まれか?)がビートルズ世代らしく、冬夜くんはその影響でクラシックやオールディーズを中心にピアノ演奏を身に付けている(子どもの頃からピアノを習わせていたのは親のようだが)。
 何のための設定かというと、「桜」という婚約者の一人が「歌がうまい」という特技を持っているので、彼女のために地球の歌を教えるというエピソードがいくつかあるのだが、その際の曲のチョイスがおじいちゃんの影響だけあってなかなかに渋い。
 覚えているかぎりでは、まずビートルズの「HELP!!」に、ミッシェル・ポルナレフの「Tout, Tout Pour Ma Cherie(シェリーに口づけ)」、アース・ウィンド・アンド・ファイアーの「September」、ジョン・デンバーの「Take Me Home, Country Roads(カントリー・ロード)」、ワム!の「Wake Me Up Before You Go-Go」、チャック・ベリーの「Johnny B. Goode」、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の主題歌「The Power Of Love」。
 そう、見事に「曲名は知らなくても、日本人なら必ず聴いたことのあるようなヒットナンバー」ばかり引っ張ってきているのだ。思わず曲名を確定させて(小説には簡単なヒントだけ書かれている)YouTubeで検索し、実際に聴きながら読んでしまった。

 特に「The Power Of Love」の使い方がすごくいい。作中ではいわゆる「歌唱魔法」というやつで、戦闘中に歌うことで魔法的な補助効果を与えるというポジションに「桜」が立つのだが、その時の定番曲が『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の「The Power Of Love」なのだ。

 僕たちを近づけさせないためだろうが、あいにくとこっちには歌姫がいる。

『させない』

 桜のロスヴァイセから力強い歌声が響き渡る。
 確かあの曲は以前変異上級種の核を探すのに使用された曲だ。
 そのものズバリ『愛の力』というタイトルのこの曲は、タイムスリップもので有名な映画の主題歌である。世界を回す力。それが愛の力。
 その前にはどんな奴だって無力。邪神だろうとてそれは同じ。

https://ncode.syosetu.com/n1443bp/423/

 うーん、エモい
 まさかこの曲も、ライトノベルの戦闘シーンでこんな使われ方をされるとは思ってもみなかったろう(そりゃそうだ)。
 というかこの小説を読むまで、BttFのあの曲が「愛の力」と訳せることなどほとんど意識していなかったくらいだ。

But you'll be glad baby when you've found
That's the power makes the world go'round

でもそいつを発見できたってのは
素晴らしいことなんだぜ
愛の力が世界を回してるってことをさ!

- このブログは非公開に設定されています。

 女性ボーカルが想像つかない人は、女性ボーカルのアコースティック・カバーがYouTubeにあるので聴いてみてもいいだろう。


Anya Marina- The Power of Love (Cover) Back to the Future - @OpieRadio @JimNorton

 他にも冬夜以外のキャラがなぜか「ジムノペディ」のギターアレンジを演奏したり、いかにも「誰もが聴いたことのある曲」なのに使い方が妙に味があっていいのだ。
 渋い……が、マニアックでもない、という塩梅。

 これらの引用のセンスも、「お茶の間」の感覚というか、一般的な音楽知識しかない人でもひっかかるような配慮と、なおかつ作者自身の懐古趣味でもあるんだろうな、という原体験が伝わってくる。
 ファンタジー世界の話なのに、現実の聴き慣れたオールディーズが入り込むというギャップの強さも異化効果を誘ってきて面白い。素直にうまいと思う。

 ここでも作者は、オリジナリティで勝負するよりも「借り物」を料理する手法を選んでいるわけだが、それもこの作品のテイストとして一貫していることだと腑に落ちるところだろう。